バイブル・エッセイ(359)分かち合う幸せ


分かち合う幸せ
 エスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」(ルカ12:16-21)
 この金持ちは、夜、死が迎えにやってきたとき一体どれほど驚いたことでしょう。労苦して蓄えたすべてのものを奪い取る死を目の前にして、きっと自分の人生の意味を問い直さざるをえなかったに違いありません。自分のためにたくさんのものを蓄えたとしても、自分のために働いている限り最後はこんなものだ。たとえ話を通してイエスはそう教えたかったのでしょう。
 死に直面したときだけではありません。生きているあいだでも、わたしたちは「一体、何のために働いてきたのだろう」と自分に問わざるをえないことがあります。たとえば、労苦の果てに、自分のために富や名誉、権力などを手に入れたときです。それらのものを目指して働いているうちは、目的があるので虚しく感じることはありません。ですが、それらを手に入れたとき、人間はどうしようもない虚しさに直面することになります。それまで光輝いて見えた富、名誉、権力などが、手に入れた瞬間に輝きを失い始め、わたしたちは「一体、何のために働いてきたのだろう」と自分に問わざるをえなくなるのです。
 これはある意味で当然のことです。どれほどの富や名誉、権力を手に入れたとしても、それだけで心が満たされることは絶対にないからです。神の愛によって創られた人間の心は、愛によってしか満たされることがないのです。ですから、もし満たされたいのならば、手に入れたものを分かち合わなければなりません。労苦して手に入れたものを、それを必要としている誰かと分かち合うとき、わたしたちの間に愛が生まれます。そしてこの愛だけが、わたしたちの心を満たしてくれるのです。自分のために働いて手に入れたものは、手に入れた瞬間に輝きを失い始め、最後は死によって奪われていきます。しかし、誰かと分かち合うことで生まれた愛は、分かち合えば分かち合うほど輝きを増し、死によっても決して奪い取られることがないのです。
 労苦して手に入れたものを、愛ゆえに誰かと分かち合うとき、わたしたちは神とも深い愛の絆で結ばれます。なぜなら、独り占めは神を悲しませますが、分かち合いは神を喜ばせるからです。誰かのために大切なものを差し出すとき、わたしたちはそれを神にも差し出しているのです。分かち合いの輪を家族から友人へ、友人から職場の仲間、地域の人々、日本中の人々、世界中の人々へと広げれば広げるほど神は喜んで下さることでしょう。
 「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」(コロ3)とパウロは言います。洗礼によって地上の命に死んだはずの私たちは、神のため、人々のために自分を捨て、自分に死ぬときにだけ「神の内に隠された」キリストの命を生きられるということです。神への愛、人々への愛ゆえに自分に死ぬときにこそ、わたしたちは喜びや安らぎ、希望に満たされた幸せな人生を生きることができるのです。自分のために生きている限り、わたしたちは体で生きていても本当の命を生きていません。キリスト教徒は、死ぬことによってのみ、本当の命、本当の幸せを生きることができるのです。
 本当の命、本当の幸せは、何かを自分のために手に入れることではなく、むしろ分かち合うことの中にこそある。愛だけがわたしたちの心を満たしてくれる。そのことをしっかりと胸に刻み、日々の生活の中で愛を実践していきたいと思います。
 
※写真…佐用町の田んぼ。