バイブル・エッセイ(362)自分の十字架


自分の十字架
 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」(ルカ14:25-33)
 途中にたとえ話が入っているのでちょっと分かりにくくなっていますが、イエス様がおっしゃっているのは次の3つのことだと思います。つまり、①「父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹、自分の命であろうと、憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」、②「自分の十字架を背負ってついて来るものでなければ、わたしの弟子ではありえない」、「自分の持ち物を一切捨てないならば、わたしの弟子ではありえない」ということです。自分の家族、自分の命を捨て、十字架を担い、持ち物を捨てなさい。そうでなければ、「わたしの弟子ではありえない」とイエス様はおっしゃるのです。「自分の十字架」という言葉を手がかりに、この箇所を読み解いてみましょう。
 ここでイエス様が言う十字架とは何でしょう。降りかかってくる災いや病気、避けがたい苦しみのことでしょうか。そうではないと思います。ここでエス様が言う十字架とは、むしろ神様がわたしたち一人ひとりに与えて下さる使命のことです。例えば、夫や妻である使命、親としての使命、社会人、主婦としての使命、司祭、教員、医師などとしての使命、それこそがわたしたちに与えられた十字架なのです。「自分の十字架を背負う」とは、神様から自分に与えられた使命を担うということなのです。
 使命の十字架を背負う前に、わたしたちはそれが本当に自分の背負うべき十字架なのか、神様から与えられた使命であるのかを「腰を据えて考える」必要があると思います。そうでなければ、自分の力ではとても最後まで担いきれないような使命を選んでしまう可能性があるからです。単なる憧れや思い込みで十字架を取るならば、あとで大変なことになるでしょう。どれが神様から与えられた本当の使命なのかを、祈りの中で神に尋ねること。本当の使命を、祈りの中で識別すること。それが大切だと思います。
 祈りの中で自分の使命を見つけ出し、十字架を担ったならば、こんどはその十字架を全力で担わなければなりません。神様から与えられた使命を成し遂げるためならば、あらゆる持ち物を捨て、必要であれば家族を捨て、自分の命さえも捨てる。キリストの弟子には、そのくらいの覚悟が求められているのです。すべてを捨てて使命を担うことは、ときに苦しみですが、わたしたちの生きる意味や力、喜びがそこから生まれてくることも事実です。使命のために自分を捨てるとき、わたしたちは本当の人生を生きることができるのです。
 使命の十字架を背負って歩いていると、ときに十字架が重荷にしか感じられなくなることもあります。「なぜ、わたしばかりこんなつらい目にあわなければならないのだ」、「もうやっていられない」などと思えて仕方がなくなることもあるのです。そんなときには、十字架を担い直す必要があると思います。その十字架が、神様から与えられたものであり、自分の人生の意味そのものだということを確認する必要があるのです。祈りの中で、日々、十字架を受け止め直し、担い直すことで、わたしたちは疲れることなく歩き続けることができるでしょう。
 何より大切なのは、「腰を据えて考え」、自分にふさわしい十字架を選ぶこと。一度選んだならば、すべてを捨ててその十字架を担いぬくことです。神から与えられた使命を正しく識別する恵み、使命を最後まで担いぬく覚悟と力を神に願いましょう。