バイブル・エッセイ(871)純粋な思い

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純粋な思い

 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。…だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」(ルカ14:25-33)

 家族や自分の命を「憎まないなら」、持ち物を「一切捨てないなら」、弟子としてふさわしくないとイエスは言います。すべての執着を捨て、ただ神から与えられた十字架、地上で果たすべき使命の十字架を担って生きることこそ、キリストの弟子の本来あるべき姿だ。そのような生き方にこそ、わたしたちの救いがあるということでしょう。

 「死すべき人間の考えは浅はかで、わたしたちの思いは不確かです」と知恵の書が語っていますが、まったく同感という気がします。人間というより、自分自身について「わたしは何と浅はかなのだろう、不確かなのだろう」と実感することが多いからです。例えば先日、こんなことがありました。何人かでお茶を飲んでいたとき、ある方が「片柳神父の説教はいつも長いですね」とおっしゃいました。わたしは若干プライドを傷つけられ、「いや、それは意味があってのことなのです」とやや感情的に言い返しました。二人の会話を注意深く聞いていた方がわたしに言ったのは、「なるほど、神父様は、自分は説教がうまいと思っておられるのですね」ということでした。自分のプライドを守ろうとして感情的になった結果、決定的に信用を失ってしまうというのは一つのパターンで、それを繰り返しているわたしは本当に浅はかだと思います。

 そのような場合に、まず考えるべきなのは「神さまは、わたしがこの場面で何を話すことを望んでおられるだろうか」ということだと思います。自分のプライドうんぬんは脇に置き、神のみ旨にかなうことを行うのが、最も賢明なのです。この場面なら、「そうなんですよ、どうぞお祈りください」などとさりげなく受け止めるのが一番よい対応だったでしょう。わたしたちの使命は、自分のプライドを守るために感情的になって人を傷つけたり、対立抗争を引き起こしたりすることではなく、神の愛をこの地上に実現すること。ゆるしと和解を実現してゆくことなのです。

 問われているのは、思いの純粋さということでしょう。財産や名誉、家族、自分自身のプライドなどに執着すれば、判断を誤り、イエスの弟子としてふさわしい行動を選べなくなってしまいます。かえって、自分がイエスの弟子としてふさわしくないことを自分で証明することにさえなりかねません。

 執着が生まれてくるのは人間として当然のことで、それを完全に消すことはできないでしょう。大切なのは、執着が生まれて来るたびに、感情的になって自分を守りたくなるたびに、その思いを神の手に委ねることだと思います。イエスの弟子に求められているのは、一つ一つの執着を手放し、純粋になってゆくこと。ただひたすら神を愛し、神からあたえられた使命、愛する使命を果たしてゆくことなのです。わたしたちの行動をいつも主が導き、わたしたちの心を主が清めてくださるように祈りましょう。