バイブル・エッセイ(363)罪人だからこそ


罪人だからこそ
 わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。(一テモテ1:12-16)
 「わたしは罪人の中で最たるものです」というパウロの言葉は、決して誇張ではないと思います。回心する前のパウロ、サウロと呼ばれていた頃の彼は、自分の正しさを振りかざしてキリスト教徒たちを迫害し、片端から捕えて牢に送り込むような人間だったからです。もしかすると、彼のために命を落としたキリスト教徒さえいたかもしれません。少なくとも、ステファノ殺害の場面に彼が居合わせたことは、はっきりと聖書に記されています。彼は、善良な人々を苦しめ、家族を引き裂き、罪もない人々を捕えて死地に追いやる恐るべき人物だったのです。しかし、そんなパウロを神は選び、使徒として立てました。なぜ、彼のような罪人が選ばれたのでしょう。わたしは、神がパウロを罪人であるにもかかわらず選んだのではなく、罪人だからこそ選んだのではないかと思っています。
 まず、罪人だからこそ感じられる神の愛があると思います。パウロは、ダマスコに向かう途中で大いなる神の愛と出会い、自分がどれほど神を苦しめてきたかに気づきました。そして、それほどまでに神を苦しめた自分さえも受け入れてくださる神の愛の深さに触れたのです。これは、パウロが罪人だったからこそ味わうことができた体験だと思います。もしパウロが自分を正しい人間だと思い込んだままだったならば、「こんなにも罪深い自分を愛してくださるなんて」と感じ、感謝の涙を流すことはなかったでしょう。自分の罪深さを知った人だけが、ゆるしの体験の中で神の愛の深さを思い知るのです。
 次に、罪人だからこそ立てられる証があると思います。パウロは、自分のような罪人が憐みを受けたのは「人々の手本となるため」だったと言っています。大罪人が神と出会って回心し、神の御旨にかなった正しい人間に生まれ変わるのを見るとき、人々はきっと「あれほどの罪人でも回心し、救われることができたのだ。きっとわたしも救われるに違いない」と思うでしょう。罪人が回心するとき、それは周りの人々の「手本」になるのです。罪人の回心は、神はどんな人間でも救うことができるということを証し、神の愛の偉大さを証して、罪の中にいる人々に希望を与えるのです。もしパウロが始めから正しい人だったなら、周りの人々は「あの人は自分とは違うから」と思うだけで、信仰を励まされることはなかったでしょう。
 最後に、罪人だからこそ与えられる特別な使命があると思います。パウロの回心の物語を読んでいてわたしが驚くのは、神がパウロをゆるしたということよりも、むしろ当時の教会の人々がパウロをゆるして教会に受け入れたということです。愛する兄弟姉妹、父や母、妻や夫を苦しめ、獄に投じ、死地に追いやった人物を、彼らはゆるして受け入れたのです。ゆるされるはずもない罪をゆるされ、教会に受け入れられたとき、パウロは何を感じたでしょうか。すべてをゆるす神の愛を実感し、自らもその愛の担い手になることを堅く決心したに違いありません。パウロは、ゆるされることによって、ゆるす使命を与えられたのです。こうしてパウロは、人々の罪をゆるし、すべての人を神のもとに導くことができるすばらしいリーダーになってゆきました。もしパウロがゆるされた体験を持たず、自分の正しさを鼻にかけて人々を糾弾するような人であれば、教会の偉大なリーダーになることは決してなかったはずです。
 神の大いなる愛と出会って自分が罪人であることに気づいたならば、あきらめるのではなく、むしろ感謝しましょう。罪人だからこそ感じられる神の愛があり、罪人だからこそ立てられる信仰の証があり、罪人だからこそ与えられるゆるしの使命があるからです。パウロの模範に倣って、回心した罪人の信仰を生きることができるよう、神に恵みを願いしまょう。
※写真…奈良市若草山のススキ。