祈りの小箱(72)『等身大の自分を生きる』


『等身大の自分を生きる』
 自分が得意な分野で、自分の無知を誰かから指摘されたとき、わたしたちはとっさに言い訳をしてしまいがちです。例えば司祭であれば聖書や神学について質問されて答えられないと、とっさに「それについては色々な考え方があって」などと、さも知っているけれど答えられないのだというような態度をとって体面を取り繕おうとしてしまうのです。少なくとも、わたしはそういうことがときどきあります。それはきっと、「神父なのにそんなことも知らないのか」と思われるのがいやだからでしょう。そこで、自分の無知を取り繕って、自分を実際よりも物知りに見せようとしてしまうのです。
 自分を実際の自分よりもよく見せたいという思いは、自分に対する自信のなさの表れといっていいでしょう。ありのままの自分、欠点や弱さだらけの自分をさらけ出せば、みんなから軽蔑されるに違いない。自分はそれほど価値のない人間だ。心の底でそう思っているからこそ、とっさに自分を大きく見せようとしてしまうのです。無知を指摘されたときばかりではありません。初対面の人などに、自分の職業や学歴、裕福さ、育ちの良さ、交友関係の広さなど、何か自分の優れた点をひけらかし、自分を実際よりも大きく見せようとする人がいれば、それはその人が自分に自信のない証拠です。いま相手の目の前にいるありのままの自分では侮られるに違いないと思って、そういったもので自分を実際より大きく見せようとするのです。
 では、どうしたら自分に自信を持つことができるのでしょう。ありのままの無知な自分、不完全で無力な自分に自信を持つことができるのでしょう。それはとても難しいことに思えますが、不可能ではありません。神様の愛を信じればいいのです。不完全で無力な自分を、それでもありのままに受け入れて下さる神の愛を確信できた人は、神から愛されている自分に自信を持つことができます。「人からどう思われようと、何と言われようと、そんなことは関係ない。神様から愛されているのだからそれで十分だ」、そう思える人は、自分を実際より大きく見せよう、偉く見せようなどとは絶対にしないでしょう。そして、どんなときでも気取らず、驕らず、等身大の自分を生きることができるのです。
 いつも自分を実際より大きく見せようとして生きるのは肩が凝ります。それに、きっと長続きもしないでしょう。ありのままの不完全で無力な自分を神様に差出し、神様の大きな愛に包まれて等身大の自分を生きてゆきたいと思います。
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