バイブル・エッセイ(369)小さく無力な者の祈り


小さく無力な者の祈り
 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ18:9-14)
 「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」に対して、イエスはこのたとえ話をしました。自分は何でも知っている、何でもできると思い込んでいる人は、神に真剣に助けを求めることがないから救われ難い。逆に、自分の無力さをいやというほど思い知らされている人は、心の底から神に助けを求めて救われるということでしょう。
 先日、半年ぶりに福島に行ってきました。この夏「ふっこうのかけ橋」に参加して神戸に来てくれた子どもたちと、交流会をするためです。そこで、お母さんや幼稚園の先生などから、こんな話を聞きました。不安を抱えながら福島で子育てしているお母さんたちは今、外からも内からも非難されてとても苦しい状態にあるというのです。
 一つの非難は、主に福島県外の人たちから発せられるものです。福島に住み、子どもを育てているというだけで「子どもたちの命がどうなってもいいのか。お前はそれでも親か。物欲を捨てて、一刻も早く避難しろ」といった心ない言葉を浴びせる人がいるというのです。この人たちは「福島は危険な汚染地帯だ」と決めつけ、自分たちの意見は絶対に正しいと思っているのでしょう。だから、福島に住み続ける人たちを見下し、容赦なく批判することができるのです。
 もう一つの非難は、主に県内の人たちから発せられるものです。「ふっこうのかけ橋」のような短期保養プログラムに参加したり、県外避難の意思を表明しただけで「なぜいつまでも放射能を心配し続けるんだ。お前たちみたいなのがいるから、いつまでたっても福島が危険だと思われてしまうんだ」という心ない言葉を浴びせる人がいるというのです。この人たちは「福島は安全だ」と決めつけ、自分たちの意見が絶対に正しいと思っているのでしょう。だから、福島から避難したいと思う人たちを見下し、容赦なく批判することができるのです。
 しかし、実際にはどうでしょうか。低線量被曝が人体にもたらす影響は、専門家の間でも大きく意見が分かれてます。政府は安全だと断言していても、多くの専門家がそれに疑問を投げかけているというのが現実です。全体の状況を見たとき、放射能の影響について確かなことは誰にも分からないということを認めざるをえないでしょう。原子力を使いこなせると思い込んでいたわたしたちは、実は放射能から身を守るための知恵さえ持っていなかったのです。
 そのような状況の中で、福島のお母さんたちは、放射能についてはっきりしたことが何も分からない自分たちの無力さ、さまざまな理由からすぐに避難することもできず、子どもを守りきれない自分たちの無力さを抱えながら苦しんでいます。そして、神を信じているお母さんたちは、ひたすら神に助けを求めて祈っているのです。このお母さんたちの祈りを、神は必ず聞き届けて下さるでしょう。苦しみの淵から助けを求める人々の叫び声を、神が無視することはありえないからです。逆に、自分はすべてを知っている、自分の意見は絶対に正しいと思い込んで彼女たちを裁いている人たちは、やがて自分たちの無力さを思い知らされるに違いありません。
 今回の地震が改めて明らかにしたのは、わたしたちには5分先に起こることさえ予測する力がないということです。原発事故は、わたしたちが放射能から身を守るための知恵さえ持っていないというとを明らかにしました。今こそ無力さを認め、神に心からの叫びをあげるときでしょう。苦しみの底から神に助けを求めるお母さんたちの祈りに心を合わせ、わたしたちも神に助けを求めて祈りたいと思います。
※写真…六甲山の山道で見かけた花。