バイブル・エッセイ(297)命を与えるパン


★このエッセイは、8月4日に愛徳学園講堂で行われた「子どもと共に捧げる平和祈念ミサ」の中での説教に基づいています。
命を与えるパン
 エスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ6:32-35)
 8か月間に及ぶ準備がついに実り、こうして福島の子どもたち、そしてお母さんたちと共に神戸の地から神を賛美することができることを心から感謝したいと思います。わたしは、このプロジェクトの実現に至る道のりをエスご自身が導いてくださったことを固く信じています。
 福島で原発事故が起こったと聞いたとき、わたしはすぐ福島に住んでいる友人たちのことを思いました。そして、彼らのために何かできないかという一心から、事故の約2週間後、福島に向かったのです。まず現地の人の声を聞きたいと思ったわたしは、友人が信徒会長を務める二本松教会でミサを立てた後、集まった信者さんたちと話をしました。そこで、皆さんが口々におっしゃったのは、「福島は危険だ、危険だと言わないでほしい」ということでした。自分たち先祖代々、福島の地で生まれ育ち、これからも福島の地で生きていきたいと願っている。それを「危険だ、危険だ」とばかり言われては立つ瀬がないというのです。
 それはもっともなことだとわたしは思いました。想像してみてください。もし日本中の人が一斉に「神戸は危険だ、危険だ」と言い始めたら皆さんどう思いますか?わたしたちの誇りであり、愛する故郷である神戸のことをそんな風に言われたら、きっとわたしたちだって悲しむに違いないでしょう。仮に本当に危険だということがわかっていても、他人からそんな風には言われたくない、それが現地の人たちの思いなのです。
 その話を聞いたとき、わたしは福島の人たちをこれ以上、悲しませたくないと思いました。自分たちはまったく手を汚さず、ただ放射能の危険だけを厳しく言い立てて福島に住んでいる人たちをさらに苦しめるのではなく、福島の人たちと共に苦しみを担いながら、放射能の危険を共に乗り越えていきたいと思ったのです。そんなとき、福島市で子育てをしている友人の稲葉景さんとその仲間のお母さんたちの口から放射能を心配しなくていい場所で、子どもたちを思い切り遊ばせてあげたい」という願いを聞きました。今回のプロジェクトは、この一言から始まったと言っていいと思います。
 イエス様はご自分を「命のパン」だとおっしゃいました。それは、イエス様が人々の苦しみを自分の命を差し出すほどの愛で受け止め、共に担ってくださるという意味だと思います。自分の命を差し出すほどの愛で魂の飢えと渇きを癒し、苦しみの中にある人々に命を与える、それが「命のパン」、イエス様なのです。
 かつて神戸が大震災にあったとき、日本中の人々が神戸の苦しみを共に担ってくれました。今度は、わたしたちが福島の苦しみを共に担う番です。エス様はもうすでに福島を訪れ、その地で人々の苦しみを共に担っておられます。わたしたちも、イエス様と共に福島の苦しみを担い、共に「ふっこう」していく明日を目指しましょう。
★この説教に続いて行われたお母さんの一人、稲葉景さんからのメッセージ「希望へのいのり」の全文をこちらからお読みいただけます。⇒ 稲葉さん・希望へのいのり.pdf 直
※写真の解説…リーダーとしっかり手をつないで海水浴場に向かう子ども。舞子海岸にて。