バイブル・エッセイ(372)希望はわたしたちを見捨てない


希望はわたしたちを見捨てない
 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23:39-43)
 絶対絶命のピンチに陥ったとき、人間はどう振る舞うのか。ここに描かれた2人の犯罪人は、絶対絶命のピンチで人間がとる2つの態度を象徴的に表しているように思えます。1人は神の愛に心を閉ざして自ら滅び、もう1人は神の愛に心を開いて救われたのです。
 絶体絶命のピンチに陥ったとき、わたしたちはつい「もうだめだ」とあきらめて、自分の世界に閉じこもってしまうことがあります。昔、ホームレスの方々のための夜回りをしていたときに、こんな話を聞きました。50代くらいの男性の話です。そのおじさんは、昔、東北から出稼ぎで東京にやってきました。始めの何年かはまじめに働いていたのですが、あるとき一人暮らしの寂しさから、故郷に妻子がいるにもかかわらず東京の女性と親しくなってしまいました。ところが、その女性は彼からお金をむしりとるだけむしりとると、彼を捨ててしまったのです。もう家族に会わせる顔がないと思いつめた彼は、そのまま東北には戻らず、ホームレスとして公園に段ボールハウスを作って生活を始めることにしました。それから数年後、彼は近所の子どもたちに襲撃され、命を落したのでした。
 本当に気の毒な話ですが、果たしてホームレスになる以外に道がなかったのかとも思います。現に、彼が亡くなったとき、故郷からお骨を引き取りにきた彼の子どもは「おやじ、なぜ故郷に帰ってこなかったんだ」と泣き崩れたといいます。故郷に帰って、もう一度すべてをやり直すことだってできたはずなのです。ですが、家族思いだった彼は、自分が家族を裏切ってしまったことがゆるせませんでした。自分を責め、もう家族に会わせる顔がないと決め込んで、ホームレスになる道を選んでしまったのです。
 この男性の家族が彼を待ち続けていたように、神はいつでもわたしたちを待ち続けておられます。わたしたちがどんな罪を犯し、どれほど惨めな状態になっても、神はわたしたちを待ち続けておられるのです。悔い改めるなら、神はどんな罪でもゆるし、わたしたちを受け入れて下さるのです。大切なのは、最後まで希望を失わないこと。どんな状況になろうとも、「もうだめだ」と決めつけて自分の世界に閉じこもらないことだと思います。心を開きさえすれば、神の愛はいつでもそこにあるのです。救いは、いつでもわたしたちの目の前にあるのです。わたしたちが希望を失うとすれば、それは自ら希望を捨てたときだけです。希望がわたしたちを見捨てることは決してありません。天国に入ることを約束された犯罪人のように、最後の瞬間まであきらめず、神の愛にすがり続けたいと思います。
※写真…京都、嵐山の紅葉。