バイブル・エッセイ(423)『誰もが神殿』


『誰もが神殿』
 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。(ヨハネ2:13-22)
 「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」とイエスは言います。イエスがここで言う神殿とはご自身の体のこと。イエスは、人と成られた神であり、イエスの体はまさに神がこの地上に住まうための神殿なのです。このことは、実は、わたしたち一人ひとりにも言えることです。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいる」(一コリ3)とパウロが言うように、神の霊を宿している限り、わたしたち一人ひとりが神殿であり、教会なのです。
 今日は、かつてローマ司教座だった大聖堂、「すべての教会の母」と呼ばれるラテラン教会の献堂記念日です。世界のカトリック教会の中心として大聖堂が建てられたことはすばらしいことですが、教会の価値は大きい、小さいによっては決まらないということも忘れないようにしたいと思います。巨万の富を費やして立派な教会を作ったとしても、そこに神がいないなら何の価値もないのです。逆に、どれほど小さく、みすぼらしい教会であっても、そこに神がいるなら計り知れないほどの価値があるのです。
 例えば、街中でときどき見かける立派な結婚式場。まるでヨーロッパの大聖堂かと見間違うくらい立派な建物ですが、中に入ってみると何かとても寒々しい感じがします。どんなにお金をかけて装飾してあっても、愛の温もりがまったく感じられないのです。神との出会いを求めて集まる人々もいません。その建物をふだん訪れても、ただ虚しいだけです。
 逆に、スラム街にある小さな貧しい教会であっても、訪れることによって大きな喜びに包まれ、力を与えられる教会もあります。例えば、わたしが昔通っていたマニラの郊外にあるスラム街、サーパンパライの小さな教会。日曜日になると、家族連れの信者さんたちで教会があふれ、若者たちの高らかな讃美の声が響き渡ります。コンクリートブロックの土台にトタン屋根をつけただけの教会ですが、神の霊がそこに宿っていることは確かです。その教会を訪れる人たちは、みな大きな喜びに包まれ、生きる力を与えられます。
 わたしたちにも同じことが言えると思います。神の神殿としての人間の価値も、大きい、小さいによっては決まらないのです。裕福に暮らし、高い地位を得、高級ブランドの服を着てどれだけ立派に見えたとしても、自分の外見を飾ることに夢中で心に愛がないなら、誰もそのような人のそばに近寄りたいとは思わないでしょう。そのような人と話したとしても、ただ虚しさを感じるだけです。逆に、どれほど貧しく、質素な生活をしていたとしても、いつも心の中に聖霊を宿している人、神の愛に満たされている人の周りにはたくさんの人が集まってきます。そんな人と話すとき、わたしたちの心は喜びと力を与えられます。人間の価値は、外見によってではなく、その人の心に宿り、その人を動かす神の霊、神の愛から生まれてくるのです。
 大きい、小さいは関係ありません。神の住まいである限り、わたしたち一人ひとりが限りなく尊い存在であることを忘れないようにしたいと思います。わたしたちの価値を決めるのは、わたしたち自身ではなく、わたしたちの内に宿った神なのです。わたしたちの心を、神の住まいとしてふさわしいものに整えられるよう、そのための恵みを願いましょう。
※写真…ソウル、明洞大聖堂の塔。
★先週のバイブル・エッセイ『第二の死』を、音声版でお聞きいただくことができます。どうぞお役立てください。