バイブル・エッセイ(394)『苦しみの中におられるイエス』


『苦しみの中におられるイエス
「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となったのです。」(ヘブライ5:7-9)
 今日の朗読箇所では、イエス・キリストが人間と共に、人間が味わうすべての苦しみを味わったこと。苦しみを味わうことによって、人類の救い主となったことが書かれています。ですが、なぜ神の子が苦しむことで、人類が救われるのでしょう。イエスの苦しみと救いのあいだに、いったいどんな関係があるのでしょうか。
 はっきりしているのは、人間が味わうすべての苦しみをイエスが味わったことによって、わたしたちが味わうすべての苦しみが、ただの苦しみではなく、イエスが味わった苦しみに変えられたということです。わたしたちが苦しんでいる苦しみは、イエスが味わった苦しみであり、その苦しみの中には必ずイエスがおられるのです。イエスが味わったことによって、あらゆる苦しみが、イエスとわたしたちを結ぶ絆に変えられたと言ってもいいでしょう。どんなにひどい苦しみの中にあっても、わたしたちのそばには必ずイエスがいてくださる。それこそが、十字架による救いなのです。
 たとえば、愛する人から裏切られる苦しみ。これは、人間が味わうあらゆる苦しみの中でも、最もひどいものの一つと言っていいでしょう。最愛の友である弟子たちから裏切られたとき、イエスはその苦しみを味わいました。「共に過ごしたこれまでの日々は、一体なんだったんだろう」「これからわたしは、ひとりぼっちでどうすればいいんだろう」。愛する人から裏切られたときにわたしたちが味わうそのような苦しみを、イエスも味わったのです。わたしたちが愛する人に裏切られて苦しんでいるときには、苦しんでいるわたしたちの傍らに必ずイエスがいてくださいます。わたしたちの傍に寄り添って、「わたしだけは、あなたを裏切ることがない」と、優しく語りかけて下さるのです。
 あるいは、社会から拒絶される苦しみ。群衆からののしられ、こんな奴は殺せとさえ言われたとき、イエスは社会から拒絶される苦しみを味わいました。「わたしの人生は失敗だった」「わたしは役立たずで、必要のない人間だ」。社会から拒絶されたときにわたしたちが味わうそのような苦しみを、イエスも味わったのです。社会から拒絶され苦しんでいるとき、そのわたしたちの傍らにイエスがいてくださいます。わたしたちの傍に寄り添って、「わたしには、あなたが必要だ」と優しく語りかけてくださるのです。
 病や怪我による肉体の痛みも、イエスは味わいました。鞭打たれ、十字架につけられたちとき、イエスは耐え難いほどの肉体の痛みも味わったのです。「なぜわたしだけがこんなひどい目に」「もうこれ以上、耐えられない」。肉体の痛みの中でわたしたちが味わうそのような苦しみを、イエスも味わったのです。痛みの中で苦しんでいるとき、わたしたちの傍らにイエスがいてくださいます。わたしたちの傍に寄り添って、「苦しんでいるのは、あなただけではない」と優しく語りかけて下さるのです。
 そして、最後に死の苦しみ。これまで慣れ親しんできたすべてのものを奪い取られ、先がまったく見えない闇の中に投げ込まれる苦しみも、イエスは十字架上で味わいました。「愛するものを手放したくない」「もう少しここにいたい」。死に直面してわたしたちが味わうそのような苦しみを、イエスも味わったのです。死に直面して苦しんでいるときにも、わたしたちの傍らにイエスがおられます。わたしたちの傍に寄り添って、「何も恐れる必要はない」と優しく語りかけてくださるのです。
 エスが苦しみに耐えたことによって、わたしたちはすべての苦しみの中にイエスを見つけることができるようになりました。苦しみでさえ、わたしたちと神をむすびつける絆になったのです。苦しみが深ければ深いほど、わたしたちとイエスの絆も深まると言っていいでしょう。この事実の中にこそ、十字架の救いがあります。わたしたちがそれぞれにいま直面している苦しみの中にも、必ずイエスがおられます。苦しみから逃げ出すことなく、苦しみの中でイエスと出会えるように、苦しみの中から呼びかけるイエスの声に気づくことができるようにと祈りましょう。
※写真…大阪城公園の八重桜。