バイブル・エッセイ(853)愛の証

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愛の証

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20:19-28)

 弟子たちの前に現れたイエスは、「あなたがたに平和があるように」と挨拶しながら、ご自分の手とわき腹の傷を弟子たちに見せたと書かれています。復活を疑うトマスにも、手とわき腹の傷を差し出しました。イエスの手とわき腹に残された傷が、今日の福音の一つの焦点と言っていいでしょう。復活したイエスの体には、処刑のときに付けられた傷跡が、はっきり残っていたのです。その傷は、イエスの弟子たちへの愛を証し、同時にイエスがイエスであることを証する傷でした。
 体が復活するとき、わたしたちはどんな姿になるのかというのは、大いに興味があるところです。例えば、100歳で亡くなった方は、復活のときも100歳の姿なのでしょうか。それとも、50歳の姿なのか、20歳の姿なのか。それによって、だいぶ復活のイメージは変わる気がしますが、実際のところは誰にも分かりません。
 ですが、復活しても消えないものがあると思います。それは、誰かへの愛ゆえにその人の体や心に刻まれた傷、その人の愛を証するような傷です。例えば、わたしは、亡くなった祖父を思い出すとき、まずその大きくてごつごつした手。長年の農作業でガサガサに荒れ、節くれだった手を思い出します。その手は、家族への愛情や彼の責任感、忍耐強さなど、さまざまなものを刻んだ手、彼の人生そのもの証するような手でした。復活して顔の様子が変わったとしても、その手を見れば、わたしは祖父を見分けることができるでしょう。逆に、復活したとき、その手がもし白魚のようなきれいな手になっていたとすれば、「これは、本当に祖父なんだろうか」と疑うかもしれません。イエスの手とわき腹に十字架の傷が残っていたように、復活するとき、わたしたちの体には、誰かへの愛のために刻まれた傷や皺が必ず残っている、とわたしは思います。
 それは、体の傷だけではないでしょう。心にも、愛ゆえに生まれた傷の跡が、必ず残っていると思います。例えば、イエスの心には、きっと弟子たちから裏切られたことが傷となって残っていたでしょう。ですが、その傷は、もはや血を流すような生々しい傷ではありませんでした。弟子たちをゆるすことによって、すっかりふさがれた傷跡。もはや痛みのない傷跡です。折に触れて傷跡が顔をのぞかせ、「お前たちも、昔はこんなことがあったじゃないか」というような言葉がイエスから発せられることはあるかもしれませんが、それは弟子たちを罰するためではなく、弟子たちの心にイエスの愛の深さを思い出させるためなのです。そのような傷跡は、もはや愛の記憶と呼んでいいでしょう。
 わたしたちの体や心に刻まれた傷が、その人の愛を証し、その人が誰であったかを証するように、イエスの体と心に刻まれた傷は、イエスの愛の深さを証しています。復活のイエスの姿を思い浮かべるとき、傷から目を逸らすことなく、逆に傷をしっかりと見つめ、その傷からイエスの愛の深さを思い出すことができますように。