バイブル・エッセイ(508)裂いて与える


裂いて与える
 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。(一コリ11:23-26)
 ガリラヤ湖のほとりで、イエスがパンを裂いて与えたとき、5000人の飢えが満たされました。最後の晩餐の食卓で、イエスがパンを裂いて与えたとき、弟子たちの心は愛で満たされました。今日は、「裂いて与える」ということの意味を考えてみたいと思います。
 裂いて与えるとき、自分の分はなくなってしまうことが多いようです。例えば時間。わたしたちは、自分のために使うことができたはずの時間を、家族や友だちのために裂いて与えます。一日があっという間に終わってしまい、自分のために使う時間はほとんど残りません。ですが、そのことを残念に思う必要はないのです。裂いて与えた時間は、愛に変わったからです。愛とは、自分の時間を、大切な誰かのために裂いて与えること。自分のために使ってしまった時間は、跡形もなくどこかに消えてしまいますが、愛はいつまでも消えることがありません。たとえば、家族のためのお弁当作りや掃除、洗濯、子育てなどに費やされた時間は、「お母さん、お父さんから愛されて育った」という確かな実感として、子どもたちの心に一生残ります。自己満足のためだけに使った時間は、どこかに消えてしまいますが、裂いて与えることで愛に変わった時間は、お互いの心にいつまでも残り続けるのです。
 裂いて与える時に大切なのは、喜んで与えるということです。ケチケチして「本当はあげたくないんだけど、仕方がないからこれだけ」という風に差し出すならば、愛ではなく、「あなたは迷惑な存在です」というメッセージを相手に伝えることになってしまいます。気前よく「いいですよ、これを持って行ってください」と差し出すときにこそ、「本当は自分のために使ってもよかったのだけれど、あなたのためならば喜んで差し出します」という愛のメッセージを相手に伝えることができるのです。裂いて与えることが苦しかったとしても、喜んで差し出すならば、その苦しみは愛に変わります。
「今日も、雑用をしているうちに、自分がやりたいことができないまま一日が終わってしまった」という嘆きをよく聞きます。わたし自身も、そういうことが多いです。さまざまなところから頼まれる小さな用事や、大きな仕事のための細かな準備が際限もなく湧いて来て、時間を奪い取っていくような感じです。「自分のために使うはずの時間を、誰かに奪われた」と思って腹が立つこともあります。ですが、本当にそうでしょうか。パンを裂いて与えながら、「これは、あなたがたのためのわたしの体」とイエスは言います。そもそも、わたしたちの時間は、自分のものではなく、「あなたがた」、つまり家族や友人たちのためのものなのかもしれません。わたしたちの時間、わたしたちの人生は、愛し合うために神様から与えられたものなのです。自分のために使えると勝手に思い込めば腹が立ちます。ですが、この人生を神から与えられたことを感謝して分かち合うなら、そこに幸せが生まれるでしょう。裂いて与えることによって、わたしたちの人生は少しずつ愛に変わってゆきます。
 自分で裂くことができないときには、イエス様の手に委ね、イエス様に裂いて頂けばよいでしょう。イエス様の手の中で、わたしたちの人生は裂かれ、愛に変えられてゆくのです。愛する誰かのために自分を裂いて与える勇気、イエスの手に自分の人生を委ね、イエスに裂いて頂くための勇気を、神に願いましょう。