バイブル・エッセイ(467)永遠の命の言葉


永遠の命の言葉
 そのとき、弟子たちの多くの者は(イエスの話)を聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(ヨハネ6:60-69)
「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」というイエスの言葉を聞いて、人々は口々に「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言って去ってゆきました。ですが、ペトロたちだけは残ることを選びます。イエスが「永遠の命の言葉」を持っていると確信していたからです。この確信こそ、わたしたちとイエスを結びつける絆だと言っていいでしょう。永遠の命の言葉と出会って救われた人は、何があってもイエスから離れることができないのです。
 人間の理解をはるかに越えた、不条理とも思える言葉や出来事に直面するとき、「なぜ、こんなひどいことが」と神を疑って離れてゆく人がいます。たとえば、地震や火山噴火のような自然災害。その悲惨な出来事に心を痛め、「神がいるなら、なぜこんなひどいことが起こるのだ」と考えて神を否定する人がたくさんいます。ベネディクト16世はあるとき、津波の被害を受けた東北の子どもから、「なぜ東北の子どもがこんなひどい目に会わなければならないのですか」と問われて次のように答えました。「なぜかはわたしにも分かりません。ですが、イエスがわたしたちと一緒にいてくださることだけは確かです。」
 この答えの中に、キリスト教信仰が凝縮されているように思います。どれほど厳しい試練がやって来ても、どれほど理不尽なことが起こっても、どんなときでもイエスは必ずわたしたちと一緒にいて下さる。これは、わたしたちの体験上まぎれもない事実です。わたしたちの理解をはるかに越える、不条理とさえ思える出来事が起こったとしても、この事実だけは絶対に譲ることができません。エスが共にいて下さるなら、わたしたちはどんな苦しみも、死でさえも乗り越えて進んでゆくことができます。その確信こそ、「あなたは永遠の命の言葉を持っておられる」ということなのです。この確信がある限り、イエスを離れてどこかへゆくことなどできるはずなどないのです。
 この確信は、親から子へ、子から孫へと引き継がれてゆきます。おじいちゃん、おばあちゃんが大切に守り、命をかけて生きぬいた信仰、お父さんお母さんが大切に守り、命をかけて生きぬいた信仰。それを次の世代が引き継いでゆくのです。これから幼児洗礼が行われますが、幼児洗礼に立ちあうわたしたちには、信仰をかけがえのないもの、絶対に譲れないものとして子どもたちに伝えてゆく義務があります。信仰をいい加減に生きていたり、いろいろなところで妥協したりして生きていれば、わたしたちはいい加減で妥協だらけの信仰しか子どもたちに手渡すことができません。そのような信仰は、あらゆる困難を乗り越えて行くための力とはならないでしょう。どんなときでも、必ずイエスがわたしたちと共にいて下さるという揺るぎのない信仰だけが、あらゆる困難を乗り越える力となる信仰であり、この信仰をこそわたしたちは子どもたちに手渡さなければならないのです。
 この世界では理解できないこと、不条理に思えることばかりが起こります。ですが、どれほど不条理な出来事であっても、イエスとわたしたちを切り離すことはでません。なぜなら、イエスこそわたしたちの希望であり、力であり、命であって、イエスを離れては生きてゆくことができないからです。「主よ、あなたは永遠の命の糧。あなたをおいて誰のところに行きましょう」と唱えて御聖体を受け取る前に、もう一度わたしたちが唱えるその言葉の意味をしっかり味わいたいと思います。