バイブル・エッセイ(413)『人生の主導権』


『人生の主導権』
 エスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。(マタイ16:21-27)
「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」とイエスは言います。命を失うことで逆に命を得る、命を手に入れることで逆に命を失うということが、確かにあるようです。
 たとえば、人生に迷っている若者が、「自分が何をしたいのか分からない、何をすべきなんでしょうか」と相談にやって来ることがあります。そんなときわたしは、その問い自体が間違っている可能性を指摘するようにしています。「自分は何がしたいんだろう、自分には何ができるんだろう」と考えているうちは、いつまでたっても自分の人生を見つけることができないのです。「神様はわたしを使って何をしたいんだろう、神様はわたしに何を望んでいるんだろう。」そう考えられるようになったとき、深い祈りの中で、自分の歩むべき道が示されるとわたしは思います。自分への執着を捨て、自分自身に死ぬとき、神の手に自分の人生を委ねるときにこそ本当の命、神様の御旨に適い、喜びと力に満たされた命が始まるのです。
 わたしたちのように自分の人生をすでに選び、日々、その道を歩んでいても同じようなことがあります。働いている中で、「わたしはこんなことを続けていていいのだろうか、これが自分のやりたかったことなんだろうか」という疑問が湧いてくるのです。子育てをしていて、会社で働いていて、教会や幼稚園で奉仕していて、いったい何になるんだろうか。こんなことに意味があるんだろうか。ふとそんな気持ちになることがあるのです。そんなときわたしたちは、自分の命を、自分のためにもっと有効に生かしたい、自分のやりたいことをしたいという思いに取りつかれています。これは悪魔の誘惑だと思います。そんな気持ちになったときには、すぐ「神様はわたしを使って何をしたいのだろうか。神様は、私がこの仕事を捨てることを望んでおられるだろうか」と考え直すべきでしょう。そうすれば、祈りの中で、自分の歩むべき道が再びはっきりと示されるはずです。
 自分に死ぬとは、自分の人生の主導権を、神様にすっかり譲り渡すということではないかと私は思います。車の運転にたとえるなら、ハンドルは神様に委ね、わたしたちは助手席に乗るのです。わたしたちのすべてを知っておられる神様は、わたしたちを一番よい道、一番よい目的地に導いて下さるに違いありません。それが、自分の命を捨てることで命を得るということだろうと思います。あらゆる場合に神の御旨をたずね、神の御旨のままに生きることで、わたしたちは本当の命を生きることができるのです。わたしたちの命は、自分の手の中ではなく、神様の手の中でこそ輝くものなのです。
自分のきまぐれや欲望、感情の赴くままにハンドルを切っていては、車は事故を起こすかもしれません。目的地まで、たどり着かないかもしれません。神様を信頼してハンドルを委ねることができるよう、自分の思いへの執着を断ち切ることができるよう、神様に願いましょう。
※写真…明石海峡大橋