バイブル・エッセイ(147)剣をもたらすために


 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ10:34-39)
 「わたしは平和ではなく剣をもたらすために来た」とイエスはおっしゃいます。しかし、イエスはこの世界に戦争を起こすためにこう言われたのではありません。イエスがもたらした剣、それは刃物ではなくイエスの御言葉そのものでしょう。
 イエスの御言葉をわたしたちが手にするとき、それはときに家族との「敵対」を生みます。もし家族の中に不義や争いがあるならば、わたしたちは御言葉の剣でそれを打ち払わなければならないからです。愛の教えに従って兄弟姉妹を赦し、彼らのために自分の全てを捧げることでわたしたち自身が御言葉の剣となり、不義や争いを止めなければならないのです。御言葉は、家族を滅びに導く不義や争いを決して見過ごすことができません。
 この剣は、わたしたち自身にも向けられます。不義や争いを目の前にするとき、御言葉の剣は家族に対する執着を断ち切るからです。イエスが求めているのは、神との一致の中から生まれる真実の愛によって家族を愛することであって、家族への執着によって表面的な平和を守ることことではないのです。
 さらに御言葉の剣は、家族だけでなく、全ての被造物への執着からわたしたちを切り離していきます。御言葉は、執着を手放し、日々自分を十字架にかけながらイエスの後に従うことをわたしたちに求めるのです。執着を手放すことは痛みや苦しみをともないますが、その痛みや苦しみは御言葉の剣がわたしたちの心にある被造物への執着を断ち切るときに生まれる痛み、苦しみなのです。
 そうして御言葉の剣は、最後にわたしたちが持つ最後の執着、自分の命に対する執着さえも断ち切っていきます。「わたしのために命を失う者は、かえってそれを得る」と言われている通り、御言葉のゆえに、神の愛ゆえに自分の命さえも手放したとき、わたしたちは真の命を与えられることになります。全ての被造物への執着が完全に断ち切られた時、わたしたちは神の命、永遠の命へと移されていくのです。
 エスがもたらした御言葉の剣は、こうしてわたしたちの心から地上への執着を全て断ち切り、わたしたちの心を「神の国」へと導いていきます。地上に見せかけの平和ではなく、この剣が与えられたことを神に感謝したいと思います。
 
※写真の解説…六甲山と茜雲。