バイブル・エッセイ(420)『神様の刻印』


『神様の刻印』
 ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マタイ22:15-21)
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とイエスは言います。とても明快な基準ですが、では、どうしたら皇帝のものと神のものを見分けられるのでしょう。それは、刻印によるとイエスは言います。皇帝の肖像と銘が刻まれていれば、それは皇帝のものであり、神様の刻印が押されていれば、それは神様のものなのです。
 洋服やバッグ、電気製品や車など、私たちが目にする商品のほとんどには、作り手の名前が刻まれています。書画でも、どこかに落款が押されていたり、署名が記されていたりするものです。わたしたちは、その名前を見て「このブランドならよい材料を使っているに違いない」「このメーカーなら壊れないだろう」、などと考えて買い物をしますから、品物に刻まれた名前はとても大切です。品物それ自体にも価値がありますが、ブランドやメーカーの名前、それを作った人の名前が品物の品質を保証し、さらに高い価値を与えるのです。
 神様も、人間を創造するとき、人間に目に見えない刻印を押しました。「神の似姿」として創造されたと言われている通り、神様はわたしたちにご自分の姿をはっきりと刻んだのです。その刻印は、わたしたちの心の奥深くに刻み込まれた神様の愛だと言っていいでしょう。わたしたち一人ひとりの心の奥底にある、優しさや親切さ、思いやり、愛しあうことへの憧れなどは、神様がわたしたちの心に刻んだものなのです。それは刻印ですから、消そうとしても消すことができません。助けを求めている人を見れば放っておくことはできませんし、もし無視すれば、わたしたちの心は痛みを感じます。
 日々の生活の中で、わたしたちは自分が誰によって創られたかを忘れてしまいがちです。その結果、自分の価値が信じられなくなり「わたしはダメな人間だ」「わたしの人生には意味がない」などと考えてしまうのです。そんなときには、自分が「神の似姿」であることを思い出しましょう。わたしたちの心に押された、愛の刻印を思い出しましょう。神様が創った物が、ダメなもの、無意味なものであるはずがありません。神様は、ご自分の作品の一つひとつに限りない愛を注がれる方です。わたしたち一人ひとりが、神様のお創りになった最高傑作だと考えて間違いないでしょう。
 神様によって価値を与えられたものが、神に属するのは当然のことです。わたしたちは、神に属するからこそ価値あるものなのです。自分が神様の作品であることを忘れず、神様の作品としての誇りをもって、自分を神様にお捧げしたいと思います。それが、神様のものは神様に返すということなのです。
※写真…「あわじ花さじき」にて。
★先週のバイブル・エッセイ『心の礼服』を、音声版でお聞きいただくことができます。どうぞお役立てください。