バイブル・エッセイ(492)聖書の教えを心に刻む


聖書の教えを心に刻む
 エス聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔はイエスエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。(ルカ4:1-13)
 ヨルダン川で洗礼を受けて聖霊に満たされたイエスは、その直後、荒れ野で40日の試練を味わいました。なぜ、神様はイエスをすぐ人々のもとに遣わさなかったのでしょう。なぜ、イエスは40日も荒れ野をさまよわなければならなかったのでしょう。それは、あらゆる誘惑に直面することによって、人間の弱さと神の教えの正しさを、身をもって味わうためだったのではないかと思います。神の教えの正しさを確信をもって語れるのは、苦しみの中で、神の教え以外に救いがないことを身をもって味わった人だけなのです。
 修道会では、聖霊に満たされて修道生活を選んだ若者に、まず厳しい修練を課します。すぐに人々のもとに派遣することはしないのです。それは、人々に教え始める前に、神の教えをしっかりと体に刻み込むためです。厳しい試練の中で神の教えの正しさを確かめ、しっかりと心に刻み付けてゆくのです。自分自身が生活の中で神の教えの正しさを体験し、心の底から信じることで、若い修道者たちは福音宣教者としてふさわしい者に変えられてゆくのです。
 生活の中での実感として考えたとき、「人はパンだけで生きるものではない」という教えは、「人間は神の愛によって養われない限り決して幸せになれない」ということを意味しているように思います。住む家があり、たくさんの服を持ち、おいしいものを食べながら生活をしていても、それだけでは「わたしは一体、何のために生きているのだろう」という気持ちが沸き上がってきます。「わたしは神から愛されている。神から使命を与えられている」。そう確信できたときにだけ、今日のこの一日は意味のある、幸せな一日に変えられてゆくのです。
 「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という教えは、「神の愛の中にとどまり続けることこそがわたしたちの幸せだ」ということを意味しているように思います。悪魔の誘惑に負けて、富や名誉を追いかけ、そのために人を蹴落としたり、助けを求めている人たちを無視したりすれば、決して幸せになることはできません。聖書の教えに従って人々とのあいだに愛の交わりを結び、神の愛の中に生きることによってだけ、わたしたちは幸せになることができるのです。たとえ会社で出世して威張り散らしていたとしても、家に帰れば家族から嫌われているというようなお父さんは、決して幸せとは言えないでしょう。悪魔の誘惑に負けて富や名誉に仕えるようになれば、待っているのは、誰からも愛されることがない孤独の苦しみだけです。家族や友達、出会うすべての人たちとの間に結ばれる愛の絆こそが、そこに宿った神の愛こそがわたしたちを幸せにしてくれるのです。
 「あなたの神である主を試してはならない」という教えは、「してはいけないと分かっていることをあえて行い、神の愛を試してはいけない」ということを意味しているように思います。「このくらいまでは大丈夫だろう。神様もきっとゆるしてくれる」というような考え方は、典型的な悪魔の誘惑です。「このくらいは大丈夫」と油断させて、悪魔はわたしたちを断崖絶壁へと誘導してゆきます。断崖の直前でふっと我に返り、「わたしは何をしていたんだろう」と深く反省する。そのような体験によって、「神を試みてはならない」ということが心にしっかりと刻まれてゆきます。
 誘惑や試練は、わたしたちを成長させるために与えられます。誘惑や試練を乗り越えることで、確信をもって神の教えを語ることができる者となれるよう祈りましょう。