バイブル・エッセイ(786)イエスと時を過ごす


エスと時を過ごす
 ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。(ヨハネ1:35-42)
 ヨハネの弟子たちは「ついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった」と書かれています。きっと、イエスと話しこんでいるうちにすっかり遅くなり、「もう今日は泊ってゆきなさい」というようなことになったのでしょう。弟子たちはこの人こそメシアであることを確信し、「わたしたちはメシアに出会った」と証し始めます。エスと共に時を過ごし、イエスの言葉に耳を傾けるとき、わたしたちはイエスがメシアであることを知ります。そして、イエスのことを人に伝えずにはいられなくなるのです。
「来なさい。そうすればわかる」とイエスは言います。イエスは、わたしたちをご自分の住むところへと招いておられるのです。エスの住まいとはどこでしょうか。それは、わたしたちの心です。わたしたちの心は「聖霊が宿ってくださる神殿」であり、イエスはその神殿の一番奥深くに住んでおられるのです。さまざまな思いが去来し、欲望の騒音でかき乱されている心の表面、騒々しい道端に、イエスは住んでおられません。エスは、他の人が誰も入ることができない、わたしたちの心の奥深く。穏やかな静けさの中に住んでおられるのです。まず大切なのは、イエスの招きに応え、心の深みに降り立つことでしょう。
 わたしは神父という務め上、教会や幼稚園、刑務所などさまざまな場所で皆さんに神様のことを話さなければいけません。そのときに、決定的に大事なのが、一人になって沈黙の中でイエスと共に過ごすことです。自分の頭で考えたことを話しても、相手にイエスを伝えることはできないのです。エスと出会って、実際に自分が感じたこと。イエスから聞いたことを語るときにだけ、わたしたちは相手にイエスを伝えることができるのです。人前で話すとき、わたしはその前に何時間も一人きりで過ごします。ただ、自分の心の中におられるイエスだけと向かい合い、「これから出会う人たちにために、何を話せばよいでしょうか」と尋ね続けるのです。こちらがじっと耳を傾けていると、イエスが話し始めてくださいます。滑らかに流ちょうに話し始めるということではありません。ぽつりぽつり、小さな声で話し始められるのです。その一言、一言を丹念に聞き取り、心の中で思いめぐらしていく中で、話が出来上がってゆきます。神の愛がどれほど素晴らしいものなのか、神様はどれほど慈しみ深い方なのか、何の迷いもなく、実感を込めて力強く語れるようになっていくのです。
 神父に限らず、キリスト教徒は誰もがイエスを人々に証する使命を与えられています。苦しみの中で救いを待ちわびている人たちに、自分が出会った救い主の素晴らしさを語ること。それこそ、キリスト教徒の使命です。イエスと出会って、その素晴らしさを人に伝えずにいられなくなった人たちの集まりが教会だと言っていいくらいです。その使命を果たすためには、イエスと共に過ごす時間、イエスとゆっくり語り合い、イエスと共に眠る時間が不可欠です。エスと共に過ごす祈りの時間の中で、わたしたちは語るべき言葉と、語らずにいられなくなる情熱を与えられ、キリスト教徒になってゆきます。「来なさい。そうすればわかる」とイエスはわたしたちを招いておられます。その招きに応え、イエスが待つ心の深みへと降りてゆきましょう。