バイブル・エッセイ(283)「アッバ、父よ」


「アッバ、父よ」
 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。(ローマ8:14-17)
 三位一体という非常に難しく感じられますが、本当にそうでしょうか。エスにおいて神の愛に触れ、聖霊の喜びに満たされて、父なる神に「アッバ、父よ」と呼びかける。この一言の呼びかけの中に、わたしは三位一体の救いが要約されているような気がします。
 イエスの教えによって、わたしたちは父なる神が、慈しみと赦しの神であることを知りました。父なる神は、「放蕩息子のたとえ」の中に出てくる父のように、子どもであるわたしたちがどんなに神を裏切ったとしても、ただひたすらわたしたちの帰りを待ち続けておられる方なのです。罪の重みに打ちひしがれたわたしたちが、父なる神の愛に気づいて顔をあげ、「アッバ、父よ」と呼びかけるのを、来る日も来る日もじっと待っておられる方なのです。
 父なる神の一方通行の愛にわたしたちがついに気づき、心の底から湧き上がる愛の喜びに突き動かされて「アッバ、父よ」と叫ぶとき、父なる神とわたしたちのあいだに真実の愛の交わりが生まれます。この愛の交わりこそが、わたしたちの救いだと言っていいでしょう。わたしたちの救いは、父なる神との愛の交わりの中にこそあり、それ以外にはないのです。こうしてイエス、喜びの霊、父なる神の三つが一つになったとき、人間に救いが実現します。それこそが、三位一体の救いだと言っていいでしょう。
 イエスの教えを信じられず、父なる神の愛を疑うとき、わたしたちはこの救いから遠ざかっていくことになります。父なる神が無条件にわたしたちを愛してくださる方だと信じられなくなり、地上の価値や評価に引きずられて「わたしは神の愛に値しない」、「わたしの人生は無意味だ」、「どうせ自分なんか」と考えるとき、わたしたちの心に入り込むのは、悲しみの霊、絶望の霊、滅びの霊です。これらの霊はわたしたちを父なる神の愛から遠ざけ、死の暗闇へと誘っていきます。エスへの不信仰、滅びの霊、死の闇という破滅への道もまた、三つで一つなのです。
 三位一体の主日である今日、わたしたちは三位一体の救いの業をもう一度全身で感じたいと思います。三位一体とは、頭で理解するものではなく、全身で感じ取る救いそのものなのです。ありったけの信頼と喜び、愛を込めて、「アッバ、父よ」と叫びましょう。
※写真の解説…満開の花菖蒲。須磨離宮公園にて。