バイブル・エッセイ(424)『神様から与えられた役割』


『神様から与えられた役割』
「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」(マタイ25:14-15,19-21)
 「忠実な良いしもべだ。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう」と、たとえ話の主人は言います。わたしたちは、大きなことを任されれば張り切って頑張るけれど、小さなことしか頼まれないとがっかりして手を抜いてしまいがちです。そんなわたしたちに、大切なのは、任された仕事が大きいか小さいかではない。むしろ、小さなことへの忠実さだとイエスは教えたいのでしょう。
 幼稚園や学校の劇で、主役を頼まれれば頑張るけれど、脇役だったら手を抜いてしまうということがあります。主役なら、うまく演じればお父さん、お母さん、友だちにほめてもらうことができるから頑張る。けれども、脇役だとどんなに頑張っても、あまりほめてもらえない。だからいいかげんにやってしまう。そういうことになりがちなのです。
 ですが、劇で一番大切なのは、みんなと力をあわせてよい劇を仕上げ、見てくれる人を喜ばせること。そして、その役をくれた先生に、「〇〇くんに任せてよかった」と喜んでもらえることでしょう。脇役しかもらえなかったとすねて、手を抜く人は、そのことを忘れています。その人が劇に出たいと思うのは、みんなを喜ばせるためでも、先生の期待にこたえるためでもなく、自分がほめてもらいたいからなのです。だから、自分がほめられないと分かれば手を抜いてしまうのです。
 わたし自身も、子どもの頃、そんな体験をしたことがあります。幼稚園のときのことですが、お遊戯会で「アリババと40人の盗賊」をすることになりました。わたしは主人公のアリババに立候補したのですが、結局、盗賊の子分の1人を演じることになりました。わたしは最初、がっかりして練習する気が起きなかったのですが、途中から「よし、こうなったら、一番いい盗賊の子分になろう」と思い直して頑張ることにしました。盗賊の子分の頑張りどころは、やられて逃げ出すところだと思ったわたしは、わざと転んだり、大げさに痛がったりしながら逃げる練習をしました。そして、本番が終わったあと、先生から「あなたの逃げ方がとてもよかった」と褒めてもらうことができたのです。
 神様から与えられた役割に、大きい、小さいはありません。勝手に小さな役割と思い込んで、手を抜いてしまうわたしたちがいるだけです。どの役割にもかけがえのない意味があることを忘れないようにしたいと思います。大切なのは、自分が評価されることではないのです。大切なのは、神様が監督する、世界という一つの大きな舞台で、自分に与えられた役割に全力を尽くすことなのです。どんなに目立たない、人から評価されない役割だったとしても、その役割がなければ世界という舞台は不完全になってしまいます。逆に、一つひとつの小さな役が光っていれば、舞台全体が光り輝くでしょう。自分がほめられることではなく、よりよい舞台、よりよい世界をみんなで作っていくこと、監督である神さまを喜ばせることを大切にしたいと思います。
★先週のバイブル・エッセイ『誰もが神殿』を、音声版でお聞きいただくことができます。どうぞお役立てください。