バイブル・エッセイ(760)誰が善人で、誰が悪人なのか?


誰が善人で、誰が悪人なのか?
 エスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」(マタイ13:24-30)
 毒麦を抜いてしまおうかという人々に、主人は「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と言います。毒麦が悪人のこと、よい麦が善人のことだとすれば、悪い人間であっても、刈り入れのときまで引き抜いてはいけない。善人まで引き抜いてしまうかもしれないからということになります。
 イエスが言いたいのは、一つには、人間の裁きの限界ということでしょう。どんなに注意深く観察しても、その人がよい麦なのか、毒麦なのかはよくわからないのです。どんなに人にも、よいところもあり、悪いところもあって、「この人は引き抜いてしまうべき悪人だ」と断定することはほとんど不可能と言っていいでしょう。ですから、人間が引き抜く作業を始めれば、必ず間違いが起こるのです。何千人という人が関わり、あらゆる角度から徹底的に調査して行われる大きな裁判でさえ、ときどき誤審が発生します。まして、週に一度教会で会うだけの相手や、学校、職場などで出会うだけの相手について、わたしたちが正しい判断を常に下せるとは限りません。裁きは、神様の手に委ね、よい麦か毒麦か分からないたくさんの人たちが一緒に育ってゆく道を考えるべきでしょう。
 どんな人の心の中にもよいところと悪いところが混じりあっている、というのも事実です。どんな人の心にも、毒麦とよい麦が生えていて、その根は複雑に絡み合っているのです。たとえば、ボランティア活動のようなよいことをしたとしましょう。初めの動機は純粋だったとしても、しだいに褒められたい、目立ちたいというような気持が入り込んでくるかもしれません。よい心の陰に、悪魔が毒麦の種を撒くのです。そんなときに、「ああ、わたしは不純な人間だ。もうボランティア活動なんてやめてしまおう」と思えば、悪魔の思うつぼでしょう。毒麦を抜こうとして、よい麦まで抜いてしまったら元も子もないのです。
 悪い思いを、無理に抜こうとする必要はありません。無理に抜こうとすれば、ますます大きくなるのが悪い思いの特徴です。一番いいのは、よい麦にたっぷりと肥料をやり、そちらを大きく育ててゆくことだと思いす。そうすれば、悪い麦は自然に枯れてしまうでしょう。
 人間という麦の場合、途中で毒麦と思われていた人がよい麦になったり、よい麦だったはずの人が、途中で悪いことを始めたりすることがあるので、ますます複雑です。若いころにたくさんの人々を傷つけ、苦しめた人が、歳をとってから深く反省し、人助けを始めるというような話がよくあるのです。非の打ちどころがないほど立派な人が、お金や権力の誘惑に負けて悪事に手を染めるというような話もよく聞くことです。悪い麦を抜いたと思ったら、実はよい麦になっていたととか、良い麦だから残して置いたら、実は悪い麦だったいうようなことが、十分にありえます。
 さまざまな面から考えて、毒麦も、よい麦も、最後のときまで育つままにしておくのが一番よいようです。裁きは神様に委ね、わたしたちとしては、自分の心の中によい麦を育てることに全力を集中してゆきましょう。