バイブル・エッセイ(447)『墓は空っぽ』


『墓は空っぽ』
 安息日が終わると、マグダラのマリアヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(マルコ16:1-7)
 婦人たちが墓に行って遺体を探しましたが、墓は空っぽでした。イエスはそこにいなかったのです。復活を一番簡単に言えば、「墓が空っぽ」ということでしょう。十字架上で死んだイエスは、墓の外で生きているのです。ここにキリスト教の救いがあります。
 墓とは何でしょう。わたしたちの「古い自分」だと考えればいいと思います。十字架上でイエスと共に自分に死ぬことによって、わたしたちの「古い自分」は空っぽになるのです。神への愛、人々への愛ゆえに自分をすっかり差し出すとき、わたしたちは自分に死に死にます。自分に死ぬとは、神への愛、人々への愛に駆り立てられ、すべての執着を捨て去り、空っぽになるということなのです。「もう、自分などはどうなってもかまわない。神の苦しみ、人々の苦しみを取り去るために、自分の全てを差し出したい。」そう思うとき、わたしたちは、「古い自分」という墓から出だすことができます。私利私欲にまみれた闇の世界から解放され、光に満ちあふれた外の世界に出ることができるのです。
 誰かがわたしたちの「古い自分」を訪ねて来たとしても、そこにはもう何もありません。怒りや憎しみ、不安、恐れなどに縛られたわたしは、もういなくなってしまったのです。悪魔が「古い自分」の中にやって来て、わたしたちを罪の中に引きずり込もうとしても、もうそこには誰もいないのです。ただ、神の使いがいて、「あの人は、もうこんな闇の中にはいません」と告げるだけなのです。「古い自分」に死んでしまった人を誘惑することは、どんな悪魔にもできません。
 十字架上でイエスと共に死んだわたしたちは、イエスと共に光に満ちあふれたガリラヤにいます。多くの人々が救いを待っているその場所で、ただひたすら人々の苦しみを癒すため、神から与えられた救いの使命を果たすためだけに全力を尽くしているのです。
 エスと共に死んだ人は、イエスと共にすべての人の罪をゆるし、すべての罪人に同情できる人です。どんな罪人でも、残らず救い出そうと思う人です。自分に対してどんなひどいことを言われたり、されたりしたとしても、決して腹を立てることはありません。もう、自分のプライドにこだわり、相手に対して腹を立てるような「古い自分」は死んでしまったからです。生まれ変わった人の心の中にあるのは、ただすべての人を救いたいという望みだけです。どんなにひどいことを言われたり、されたりしても、考えるのは「なぜ、この人はこんなことをしてしまうのだろう。どうしたらこの人を罪の闇の中から救い出すことができるだろう」ということだけなのです。
 「自分に死んだ」と言いながら、いつまでも墓の中にいてはいけません。プライドや物欲、名誉欲などにしがみついて、腐臭のただよう墓の闇の中にとどまっていてはいけません。復活の命に生きるとは、いつでも「墓が空である」ということ。「古い自分」はもう死んでしまって、どこにもいないということです。「古い自分」から抜け出し、光の中でイエスと共に復活の命を生きるための勇気と力を願いましょう。