バイブル・エッセイ(752)いつくしみに満ちた王


いつくしみに満ちた王
 そのとき、議員たちは、イエスをあざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23:35-42)
 惨めな姿で十字架につけられ、なすすべもないイエス。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」と議員たちは嘲り、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と兵士たちは侮辱します。ですが、それらの言葉はまったく見当はずれです。人々を救うために選ばれた者だからこそ、イエスは自分の命を喜んで人々のために捧げるのです。王だからこそ、苦しんでいる自分の民を放っておくことができないのです。救い主とは、人々を苦しみから助けだすために、喜んで自分を差し出すことのできる人のこと。それほどまでに民を思い、民を愛する人こそ、真の王なのです。
 あるとき、カルカッタの「死を待つ人の家」でこんなことがありました。スラム街から、重症の結核で運び込まれてきたご婦人がいました。貧困の中でやせ細った彼女のために、シスターたちは普通の食事のほかにビスケットを与えることにしました。ところが、彼女はそのビスケットを食べないで、こっそり布団の下に隠していました。シスターが気づいて叱っても、同じことを繰り返します。あるとき、一人の男の子がその女性を訪ねてやって来ました。母親の居場所を見つけ出して、子どもが訪ねてきたのです。すると、彼女はベッドの下に隠しておいたビスケットを子どもに与えました。お腹が空いていたのでしょう、子どもは大喜びでそれを食べ始めました。彼女がビスケットを隠していたのは、いつか訪ねてくるかもしれない自分の子ども、お腹を空かせた自分の子どもにビスケットを与えるためだったのです。
 お腹を空かせた子どものことを思って、自分を犠牲にするこのお母さんの心には、確かに神様の愛が宿っているように思います。苦しんでいるわたしたち「神の子」を放っておくことができない。子どもを助けるためなら、自分さえも犠牲にする。それが神様の愛なのです。イエスは、あらゆる苦しみを、神の栄光のため、苦しんでいる「神の子」たちのために耐え忍んだいつくしみ深い王なのです。
 イエスの隣で処刑された強盗は、「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願いました。この強盗は、イエスが、ただ惨めに死んでゆくのではないこと。イエスが、神から与えられた使命を果たすために死んでゆく偉大な王であることに気づいたのです。イエスが、神の栄光のため、人々の救いのために苦しみに耐えているのだと気づいていたのです。神のいつくしみ深さを目の当たりにしたこの強盗が天国に入ったのは、ある意味で当然のことだと言っていいでしょう。
 「いつくしみの特別聖年」の終わりにあたって、わたしたちも、十字架につけられるイエスの中に神のいつくしみを見つけたいと思います。十字架からあふれだすいつくしみに満たされて、わたしたち自身も苦しんでいる人々に神のいつしくしみを証してゆくことができますように。