バイブル・エッセイ(823)本当の目的


本当の目的
 そのとき、ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。(マルコ9:33-37)
 イエスの名を使って悪霊を追い出す人を見て、弟子たちは止めようとしました。なぜでしょう。それは、おそらく嫉妬だと思います。エスの弟子でもない人たちが、イエスの名を使って悪霊を追い出し、人々から称賛されているのを見て、弟子たちは嫉妬したのです。そんな弟子たちに、イエスは「やめさせてはならない」と言います。すべての人がイエスの名によって救われることが自分たちの目的なのだから、イエスの名によって救いの業を行う人がいたなら、その人は自分たちの味方。争う必要などないといことでしょう。
 弟子たちの姿は、わたしたち自身にも重なるように思います。たとえばあるとき、ミサの後で、一人の信徒がわたしのところに来て「この間、〇〇神父様のごミサに出てきました。本当にすばらしい説教で、救われた気がしました」という話をしました。わたしは、「それはよかったですね」と応じましたが、内心は穏やかでありませんでした。「じゃあ、わたしのいまの説教はどうだったんですか」と思ってしまったからです。典型的な嫉妬と言っていいでしょう。説教とはそもそも、すべての人の心に神様の愛を届けるため、すべての人の救いのためにするものなので、誰の説教を通してであっても、その人が救われたのなら喜ぶべきでしょう。嫉妬が生まれるということは、やはりどこかに不純な気持ち、人を救うことによって自分が評価されたいとか、神の恵みを独占したいとか、そのような気持ちがあるのだと思います。
 嫉妬は争いを生み、争いは、せっかく始まった神様の救いの業を台無しにしてしまいます。たとえばわたしが、信徒がせっかく称賛している神父様について、「いや、あの人はこんな欠点があるのだよ」などと悪口を言い始めれば、信徒はがっかりして、「なんと心が狭い。キリスト教は、この程度のものなのか」と思うかもしれません。神様がせっかく始められた救いの業が、台無しになってしまうのです。その信徒が救われたのならば、そのことを純粋に喜ぶ。そして、その喜びをさらに大きく育ててゆけるよう協力する。それが神父の役割でしょう。
 神父に限らず、教会ではこのようなことが起こりがちだと思います。「なんだ、あいつは自分ばかりかっこつけて」「あんなやり方はおかしい」などと、自分の評価を求めて教会の中で競い合う。あるいは、他の教派や宗教団体が人助けをこしているのを見て競争心を燃やし、その人たちの悪口を言う。そんなことが起こりがちです。ですが、それは神のみ旨ではありません。わたしたちが互いに協力しあい、一人でも多くの人が救われること、それこそが神のみ旨なのです。人のことを妬んでいる時間があれば、自分にできることを見つけて、それをした方がいいでしょう。すべての救いという目標を目指して、協力することができるように祈りましょう。