バイブル・エッセイ(845)誘惑を退ける

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誘惑を退ける

 イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。(ルカ4:1-13)

 悪魔の巧みな誘惑を、イエスが簡潔な聖書の言葉によってきっぱり退けてゆく場面が読まれました。神の言葉で答えられてしまえば、悪魔はもうそれ以上何もできません。これこそ、悪魔の誘惑を退けるために最もふさわしい方法だと言っていいでしょう。
 誘惑を受けたときに一番よくないのは、相手の言葉に乗せられて、交渉を始めてしまうことです。アダムとイブの話でもおなじみの手口ですが、悪魔は人間の一番弱い部分に付け込んで誘惑し、「少しくらいは大丈夫かな」と人間に思わせようとします。そして、「そこまではできない」(私たちの声)「まあでも、このくらいなら大丈夫ですよ」(悪魔の声)などという交渉に引き込んでゆき、結局、人間を悪に引き込んでしまうのです。
 ちょうど、「振り込め詐欺」の手口に似ています。振り込め詐欺の犯人は、まず相手を信用させるような話をしたうえで、具体的に振り込む金額を提示します。そこで、「そんなには払えないよ」と言ってしまえば犯人の思う壺だそうです。「じゃあ、このくらいなら払えるだろう」と犯人は前より少ない金額を提示し、結局、相手を丸め込んでしまうのです。
 そんなときに、一番いい答えは「お金を払うつもりはまったくない。警察に通報する」と伝えることだそうです。相手の言葉をきっぱり拒み、正義に訴えるというというこの方法は、振り込め詐欺だけでなく、あらゆる誘惑を拒むのに役立つ方法だと言っていいでしょう。悪魔の誘惑にあったときには、「そんなことをするつもりは全くない。聖書にはこう書いてある、神様はこうおっしゃっている」と答えればいいのです。
 悪魔からの誘惑を受けて迷ったときには、世俗の利害損得などで考え始めないことが大切です。自分の頭で考えるのではなく、神様の声に耳を傾けるのです。聖書にはどう書いてあったか、イエスならこの場面でどういうだろうかと思い巡らすうちに、一番よい答えが見つかるに違いありません。富や名誉、権力を求める欲望だけでなく、嫉妬や不安、恐れ、孤独など人間のあらゆる弱さに悪魔は付け込んできます。どんな誘惑に対しても、「人はパンだけで生きるものではない」「なたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」「あなたの神である主を試してはならない」というイエスの答えさえ覚えておけば、ほとんど対応できるのではないかとわたしは思っています。
 悪魔は、本当に巧みにわたしたちを説得しようとします。信頼できる家族や友人の心の中に入り込んで、その人を通してわたしたちを誘惑しようとすることさえあるのです。相手を信用するなというわけではありませんが、悪魔が付け入る隙がまったくないほど完璧な人はいません。あまりに不自然な話であれば、相手の中に悪魔が入り込んでいないかを疑うのも大切なことだと思います。イエスの模範に倣って、あらゆる誘惑をきっぱり退けることができるように祈りましょう。