バイブル・エッセイ(496)降りてゆく道


降りてゆく道
 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。(フィリピ2:6-11)
「キリストは人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」とパウロは言います。キリストは、最もみじめな十字架上の死にまで下ったからこそ、最も高い天の栄光に挙げられたというのです。ここに、救いへの道がはっきりと示されていると思います。天国の栄光に至るための道は、最も低いところまで降りてゆく道なのです。
 降りてゆくことを拒むことは、救いへの道を外れるということに他なりません。降りてゆくことを拒む人は、自分で自分を不幸にしてしまうのです。例えば、何かが自分の思った通りにならないとき。幼稚園の行事で、先生方が自分の思った通りに準備をしてくれていなかったというようなときに、自分を高くして、上から目線で「なんで、このくらいのことができないんだ」と怒り出せば、救いの道から外れてしまいます。周りの人も不愉快な気分になるし、自分自身も不幸になってしまうのです。救いの道を進みたいなら、降りてゆくことです。「先生方も忙しいのだし、自分自身の準備も足りなかった」と思って、与えられた条件の中で全力を尽くせば、周りの人も幸せになるし、自分自身も幸せになるでしょう。それが救いへの道なのです。
 それは、自分自身を十字架につけてゆくということでもあります。何でも自分の思った通りに動かそうとし、自分の思った通りにならないと周りの人たちや環境のせいにして腹を立てる傲慢な自分を、十字架にかけてしまうのです。傲慢な自分に死んで、謙遜な自分に生まれ変わると言ってもいいでしょう。傲慢は、いらだちと怒りを生んでその人を不幸にしますが、謙遜は、感謝と喜びを生んでその人を幸せにします。傲慢な自分を十字架にかけ、謙遜な心に立ち返ることこそ、救いへの道であり、幸せへの道なのです。
 ときには、本当に相手の落ち度や愚かさによって問題が起こっている場合もあるでしょう。ですが、そんなときでも降りてゆくことが大切です。自分を侮辱する兵士たちのために、イエスは「彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈りました。人間となられたことで人間の愚かさを知っておられたイエスは、兵士たちに腹を立てず、むしろ兵士たちを憐れんだのです。自分自身の愚かさを知って、相手の愚かさを憐れんだと言ってもいいかもしれません。これも、降りてゆくということです。自分も相手と同じように弱い人間だと認めて、相手のために祈る。それこそが、救いへの道なのです。
 これから聖週間が始まります。傲慢な自分を十字架にかける苦しみの中で聖週間を過ごすことこそ、復活祭へのもっともよい準備です。救いへの道は、どんな場合にも降りてゆく道、謙遜の道だということを忘れずに、この一週間を過ごしましょう。