バイブル・エッセイ(499)悪魔にとどめを刺す


★3月27日晩から4月5日朝まで「年の黙想」に入ります。どうぞお祈りください。
悪魔にとどめを刺す
 あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。(ローマ6:3-11)
 「わたしたちは洗礼によってキリストの死にあずかるものとなりました。それは、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」とパウロは言います。洗礼を受けることで、わたしたちは古い自分に死んだはずなのです。ですが、日々の生活の中で、死んだはずの古い自分がいつまでも生き続けているように感じることがあるのも事実です。古い自分は本当に死んだのでしょうか、それとも生きているのでしょうか。洗礼の水は、古い自分にとどめを刺すことができなかったのでしょうか。
 最近、子どもたちから質問に教皇様が答えるという形の絵本が出版されました。その中で、一人の子どもが教皇様にこんな質問をしています。「神様は、なぜ悪魔をやっつけてしまわないのですか」。確かに子どもたちの言う通りだと思います。神様が誘惑者である悪魔を完全にやっつけてくれれば、何の苦労もないのです。この質問に、教皇様は次のように答えました。「神様は悪魔をやっつけたのです。ですが、トカゲの尾っぽが体から切り離されても動き続けているように、悪魔の尾っぽがのたうち続けているのです」。洗礼によって原罪が清められてもわたしたちの心の中に残り続ける罪の影響を、教皇様はこのように表現されたのだと思います。
 神様が悪魔を倒し、罪を滅ぼしても、わたしたちが罪にしがみつき続けていると、罪はなかなか滅びません。罪への執着こそ、トカゲの尾っぽをいつまでも動かし続ける力だと言っていいでしょう。エスの弟子になると誓ったなら、地上の富や栄光、快楽への執着を手放す必要があります。欲望を満たすことはできても、心を満たすことができない見せかけだけの幸せを、いつまでも横目でちらちらと見て、うらやましがっていてはだめなのです。
 地上の富や栄光にしがみき、「なぜわたしだけこんな目にあわなければならないんだ。ばかばかしい」と不満を抱えていれば、わたしたちはいつまでも罪の虜囚です。決して、幸せになることができません。それは、せっかく開いた天国へのドアを自分で閉めてしまうようなものです。どんなときも顔をしっかりと天に向け、天国の栄光だけを仰いで生きたいと思います。心の扉をしっかり開きさえすれば、わたしたちの心は、地上の富や栄光を手に入れる喜びよりもはるかにすばらしい喜びで満たされるのです。いつまでも消えることのない、永遠の命の喜び。わたしたちの心を燃え上がらせ、生きる力をこんこんと沸き上がらせる愛の喜びで満たされるのです。
 自分に死ぬとは、罪への執着を断ち切り、自分がしたいことではなく、自分がすべきことをするということです。自分の欲望ではなく、神の御旨に従って生きるということです。罪の快楽に心を惹かれれば、すぐにトカゲの尾っぽが動き出し、せっかく築いた幸せを壊してしまうでしょう。罪への執着を断ち切り、悪魔にとどめを刺すことができるように祈りましょう。