バイブル・エッセイ(489)神のいつくしみのみ顔


神のいつくしみのみ顔
 エスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(ルカ4:14-21)
 主がメシアを遣わして人々を救うというイザヤの預言が読まれました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とイエスは言います。救いは、イエスと出会ってその顔を見、その声を聞いたその瞬間に実現するものなのです。それは、『いつくしみの特別聖年』開年を告げる教皇様の大勅書に述べられている通り、イエスこそ、「父なる神のいつくしみのみ顔」だからです。神と顔を合わせて出会うとき、わたしたちは神の大いなる愛に包まれて救われるのです。
 わたしたちが救われたと感じるのは、神の愛について書かれた本を読んだときや、神の愛について講座を受けたときではありません。神の愛と直接に出会ったときです。たとえば、大きな失敗をして「自分なんかもうだめだ」と落ち込んでいるときに、教会の仲間から優しい言葉をかけられた。すると、苦しみがやわらぎ、力が沸き上がって来た。それが救いの体験なのです。思った通りに生きられず「自分なんかには価値がない」と思い込んでうつむきながら歩いているときに、神父さんからにっこりと微笑みかけられた。すると、心にさっと希望の光が差し込み、喜びと生きてゆくための力が沸き上がってきた。それこそが救いの体験なのです。人々の声や笑顔などに宿った神の愛と出会うとき、私たちの心に小さな救いが実現するのです。
 キリスト教の救いとは、一言でいえば神の愛との出会いです。ミサの深い祈りの中で、教会での仲間との交わりの中で、イエスはわたしたちにやさしく語りかけ、微笑みかけてくださいます。その声を聞き、笑顔を見て、神がどれほどわたしたちを愛してくださっているかを実感するとき、神の愛で心を隅々まで満たされるとき、わたしたちに救いが訪れます。苦しみを乗り越え、絶望から立ち上がって、前に進んでゆく力が与えられるのです。
 「捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を、圧迫されている人に自由を」もたらすと言われている通り、与えられる救いの恵みは人によって異なります。「こんな自分ではだめだ。生きている価値がない」という思い込みに縛られている人にイエスは、「そんなあなたでいい。あなたがあなただというだけで、あなたには価値がある」と語りかけ、その人を思い込みの束縛から解放します。
 イエスは、「自分は神から愛されていない。お先真っ暗だ」と思い込んでしまっている人の目を開き、この世界がどれほど神の愛に満たされているか。神がどれほどわたしたちを愛してくださっているかを見せてくださいます。エスの愛に触れるとき、わたしたちは自分がどれだけ恩知らずだったかに気づかされるのです。
 神のいつくしみの中で、わたしたちは誰もがかけがえのない神の子、兄弟姉妹であることに気づき、愛し合う自由を与えられます。エスの愛は、わたしたちの心から競争社会の価値観やいわれのない差別、偏見などを取り除いて、まずわたしたち自身を自由にし、わたしたちの周りにいる人たちを自由にしてくださるのです。
 神の愛で心を満たされるとき、今度はわたし自身が「神のいつくしみのみ顔」となる使命が与えられます。優しい言葉や心からのほほ笑みによって神の愛を伝え、救いを告げる者となれるように、わたしたちを通して人々がイエスと出会うことができるように、神の恵みを願いましょう。