バイブル・エッセイ(754)人生のまっすぐな道


人生のまっすぐな道
 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネは、ファリサイ派サドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」(マタイ3:1-12)
 「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」という言葉が読まれました。エスがわたしたちのもとにやって来るための道、わたしたちがイエスに向かって進んでゆく道を、まっすぐにせよというのです。ですが、どうしたら人生の道を、迷いなく、まっすぐに伸ばしてゆくことができるのでしょう。
 大切なことが二つあると思います。一つは、進んでゆく先にある目標を、しっかりと見据えることです。わたしたちの進んでゆく先にある「神の国」という目標をしっかり見据え、わき目も振らずに進んでゆくとき、わたしたちの人生はまっすぐになるでしょう。
神の国」とは、具体的に言えば、すべての人が「神の子」として大切にされる世界。神様の愛の中で、すべての人が人間らしく、幸せに生きられる世界のことです。「自分たちさえよければいい」という考え方や、「難民のことなんか自分とは関係ない」というような考え方をするとき、わたしたちは人生のまっすぐな道から外れてゆきます。自分たちだけでなく、世界中のすべての人が幸せに生きてゆくためにはどうしたらいいか。難民の人たちを救うため、自分に何ができるのか。そう考える人の前には、「神の国」へとまっすぐに続く道が開かれるでしょう。
 もう一つの大切なことは、手元にしっかりとしたコンパスを持っているということです。いつも進むべき正しい方向を示してくれるコンパスがあれば、仮に遠くにある目標を見失うことがあったとしても、わたしたちはまっすぐに進んでゆくことができるでしょう。人生の道をまっすぐに進んでゆくためのコンパス。それは、「いつくしみ」です。
 「いつくしみ」とは、具体的に言えば、苦しんでいる「神の子」、兄弟姉妹を見たときに、放っておくことができないということです。「苦しんでいる人を見たら放っておけない」という気持ちを、コンパスとして心に持っている人は、どんなときでも迷わず、イエスに向かって進んでゆくことができます。道端で倒れている人を見かけたとき、「今は忙しいから」と言い訳して通り過ぎるなら、わたしたちはイエスから遠ざかりますが、その人のそばに行って手を差し伸べるとき、わたしたちはイエスに近づくのです。心の中にある「いつくしみ」というコンパスが指し示す方向に向かって進んでゆくとき、わたしたちの人生の道のりは、イエスに向かってまっすぐに伸びる道になるでしょう。
 神の国」という目標を見定め、わき目も振らずに進んでゆくこと。「いつくしみ」というコンパスを懐に入れ、いつもその指し示す方角に向かって進んでゆくこと。この二つを忘れないようしたいと思います。まっすぐに伸びた人生の道は、そのまま「神の国」に続く道であり、その道のりの至るところで、わたしたちはイエスと出会うことができるのです。その道を歩むことこそが、わたしたちの幸せだと言っていいでしょう。