バイブル・エッセイ(760)畏れと安心


畏れと安心
 起きよ、光を放て。/あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。/見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。/しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。/国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。/目を上げて、見渡すがよい。/みな集い、あなたのもとに来る。/息子たちは遠くから/娘たちは抱かれて、進んで来る。/そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き/おののきつつも心は晴れやかになる。/海からの宝があなたに送られ/国々の富はあなたのもとに集まる。/らくだの大群/ミディアンとエファの若いらくだが/あなたのもとに押し寄せる。/シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。/こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。(イザヤ60:1-6)
「あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」とイザヤは預言しています。神がイスラエルを憐れみ、大きな希望の光を与えるというのです。それは、イエス・キリストに他なりません。イエスこそ、わたしたちに与えられた、神の愛の目に見えるしるしなのです。この光を目指して、世界中の人たちが集まって来ます。東方から三人の賢者がやって来るという話は、その一つの例と言っていいでしょう。
 イエスが輝かせた神の栄光は、いま地上に降りてわたしたち一人ひとりの中に輝いています。いま空を見ても博士たちが見たような星は見えませんが、地上にいくつもの星があるのです。わたしたち一人ひとりが地上に降りた星なのです。その輝きに惹かれてやって来る人は、わたしたちの心の中にイエスを見つけるでしょう。
 わたしたちが輝かせる光とは、どんな光なのでしょう。「そのときあなたは畏れつつも喜びに輝き、おののきつつも心は晴れやかになる」とイザヤは言っています。わたしたちは、畏れと喜びという二つの相反する思いの中で輝きを放つというのです。第一に、畏れを忘れないことはとても大切だと思います。神から選ばれ、大きな恵みを与えられたからといって思い上がれば、決して輝くことができません。神の前に跪き、自分の罪を絶えず反省しながら新しい自分に生まれ変わってゆこうと努力する人だけが、神の栄光を輝かせることができるのです。
 神の前に立つとき、わたしたちは同時に大きな喜びで満たされます。神があらゆる罪をゆるし、大きな愛で包み込んでくださると確信しているからです。喜びに満たされた心から自然に湧き上がる笑顔が、わたしたちの顔を輝かせます。自分の罪深さを知りつつも諦めず、愛されているからといってだらけることもない。謙遜だが卑屈ではなく、自信に満ちているが思い上がることがない。それこそが、神の民の特徴だと言っていいでしょう。
 この正月にトルストイの民話を読み直したのですが、トルストイが描く農民たちはまさにこのような人々です。「イワンの馬鹿」という言葉に象徴されるように、トルストイは馬鹿たちを好んで描きます。ただし、馬鹿というのは、この場合は最高の誉め言葉です。大金や名誉、権力を目の前に積まれても、「そんなもの、わたしたちには必要がない」とあっさり断ってしまう欲のなさ。人からののしられても言い返さず、財産を奪われても喜んで差し出してしまう人のよさが、世間から見ると馬鹿に見えるということなのです。このような「イワンの馬鹿」たちこそが、ロシアの宝だとトルストイは考えています。トルストイのいう馬鹿とは、目先の利害ではなく大局に立って考えられる大きな度量を持った人たち。すべてを神様の視点から見ることができる人たちだと言っていいでしょう。彼らこそ、神の栄光に照らされた人たちであり、地上に輝く星なのです。富や権力を求める争いの中で傷つき、疲れ果てた人たち、闇の中で迷う人たちは、みなイワンのもとに集まってきます。
 富や権力を欲しがらず、人から何を言われても怒らない人。神を畏れ、神から愛される喜びに満たされて輝いている人になることができるよう、心から神様に祈りたいと思います。