バイブル・エッセイ(945)起きよ、光を放て

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起きよ、光を放て

 起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから娘たちは抱かれて、進んで来る。そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き、おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ、国々の富はあなたのもとに集まる。らくだの大群、ミディアンとエファの若いらくだが あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。(イザヤ60:1-6)

 「起きよ、光を放て」とイザヤは人々に呼びかけました。この言葉は、わたしたちに向けられた言葉と考えてよいでしょう。2世紀の教父、聖イレネオが「神の栄光は生きている人間」という言葉を残していますが、神の栄光は人間を通してこの世界に輝き出ます。月が太陽の光を受けて輝くように、わたしたち人間は、神の栄光を身に受けるとき全世界を照らすほどの光を放つのです。

 では、神の栄光とは一体なんでしょう。それは、三位一体のうちに実現した完全な愛の一致であり、そこから全世界にあふれ出す神の愛だと言っていいでしょう。絶望の闇の中で苦しむ人間たちのために、自らの一人子を差し出すほどの神の愛。それこそ、まさに神の栄光なのです。この栄光を受け止めるとき、すなわち、「わたしはこれほどまでに神から愛されている」と実感し、感謝の涙をこぼすとき、わたしたちは輝き始めます。喜びと希望に満たされて顔が生き生きと輝き、人生そのものが輝き始めるのです。

 ですが、残念ながら、教会を見渡したとき必ずしもすべての人の顔が輝いているわけではないようです。わたし自身、浮かない顔、暗い顔をしていることがよくあります。何が神の栄光を妨げているのでしょう。何がわたしたちの心から、神から愛されているという喜びを奪い、輝きを消してしまうのでしょう。

 一つには「こんなわたしが、神さまから愛されるはずがない」という思い込みがあるでしょう。聖書の教えを学び、どんなに人を愛そう、ゆるそう、清らかな生活をしようと思っても、人間の力には限界があります。失敗を繰り返す中で、わたしたちはつい「こんな自分では駄目だ」と思い込んでしまうのです。反省するのは大切なことですが、「こんなわたしが、神さまから愛されるはずがない」と思うのは大きな誤解です。神さまは、わたしたちが間違いを犯す弱い人間だということを初めからよくご存じなのです。間違いを犯し、道を外れながらも、何とかして神の愛に立ち返えろうとするわたしたちを、神さまはどんなときでも辛抱強く待っていてくださいます。「こんなわたしが、神さまから愛されるはずがない」という言葉は、神の愛への過小評価であり、まったくの誤解だと言っていいでしょう。「こんなわたしでも、神さまは愛してくださっている。わたしたちは罪びとだが、愛された罪びとなのだ」、そのことに気づくとき、わたしたちは神の愛に満たされ、わたしたちを通して神の栄光が輝き始めます。

 もう一つは、乱れた愛着によってわたしたちの心が神から離れてしまうことが考えられます。神の愛に心を閉し、他のものを神よりも大切に思うとき、わたしたちは光を失ってしまうのです。大切なのは、わたしたちの本当の幸せがどこにあるのかをいつも忘れないこと。本当の幸せに向けて、心をまっすぐ整えていることだと思います。聖イグナチオは、代表的著作『霊操』の冒頭で、「自分に打ち克ち、いかなる乱れた愛着にも左右される事なく生活を整えるための霊操」と著作の目的を語っています。何か他のものに引きずられそうになったときには、「そんな方に行っても本当の幸せはない。迷いが深まるだけだ」と思い返して立ち戻りましょう。そうすることで、わたしたちは人生の輝きを守ることができるのです。

 今年5月から聖イグナチオの回心を記念する「イグナチオ年」が始まります。聖イグナチオは、「愛された罪人」としての自覚を持って生きること、乱れた愛着を断ち切って生活を整えるということをとても大切にされた方です。聖イグナチオのとりなしによって、神の愛を心にしっかり受け止め、神の栄光を輝かすことができるよう祈りましょう。

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