バイブル・エッセイ(770)喜びの泉


喜びの泉
 そのとき、イエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」(ヨハネ4:5-15)
「あなたに生きた水を与える」、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」とイエスは言います。イエスが与える「生きた水」、とは何でしょう。それは、神様の愛に他なりません。わたしたち人間の心の奥底にある、「愛されたい」という根源的な渇きを癒やすために、イエスは、「生きた水」「命の水」である神様の愛を届けに来てくださったのです。
 その水は、「その人の内で泉となる」とイエスは言います。エスと出会い、イエスから愛されるとき、わたしたちの心に刻み込まれる「わたしは神から愛されている」という確信。その確信が、どんなときでも喜びの水があふれだす泉になるのです。エスとの出会いの体験が、わたしたちの心に消すことのできない愛の痕跡を残し、その痕跡が尽きることのない命の泉となる。そう考えてもいいでしょう。どんなに苦しい時でも、その泉に立ち返るとき、わたしたちはそこに「命の水」を見つけることができます。
「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです」とサマリアの女は言います。荒れ地の中にあって何百年も枯れることがなかったヤコブの井戸は、とても深いものでした。わたしたちも、心に深い井戸を掘る必要があります。イエスとの出会いが鮮烈なものであればあるほど、イエスから感じた愛が深いものであればあるほど、わたしたちの心の井戸も深いものになるでしょう。「わたしは愛されている」という深い確信、それこそが、どんなに苦しいときでも枯れることのない、命の泉なのです。
 わたしたち自身は、きっともう心の中にそのような泉を持っているはずです。積もった落ち葉が泉を覆い隠してしまうように、日々の暮らしの中で降り積もるさまざまな思い煩いや不安、疲れなどによってその泉は覆い隠されているかもしれません。ときおり、それらの落ち葉を取り除く必要があると思います。祈りの中でそれらの落ち葉を取り除き、「自分は愛されている」という確信を取り戻す必要があるのです。イエスとの出会いを日々、新たにすることによって、落ち葉を吹き飛ばしてしまう必要があるのです。
「生きた水」で心の渇きが癒やされたなら、今度は、自分がその水を周りの人たちに分けてあげる番です。わたしたちの身の回りには、孤独の中で「愛されたい」と心の底から願っている人がたくさんいます。その人たちに、「生きた水」、神様の愛を届けるのです。わたしたちから「生きた水」を受け取るとき、その人たちの心からも喜びの泉が湧き出すことでしょう。そのようにして、この世界を「生きた水」、神様の愛で満たしてゆくこと。人間の心の渇きを、イエスと共に癒やしてゆくことこそ、わたしたちに与えられた使命なのです。その使命を果たすために、まずわたしたち自身の心を「生きた水」で満たしていただくことができるように祈りましょう。