バイブル・エッセイ(789)神様の愛に土台を置く


神様の愛に土台を置く
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。(マタイ6:1-6) 
 四旬節の始まりにあたって、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」とイエスはわたしたちに語りかけています。人からの評価に気を取られて、肝心の神様を忘れてはいけないということです。エスは、わたしたちがつい、目に見えない神様の愛よりも、目に見える人間からの評価に心を惹かれてしまいがちなことを、よく知っておられるのです。
 社会に出て活躍し、人から注目されているうちは自分の人生に意味があると感じたけれど、引退して家にこもり、人から注目されなくなると人生に意味が感じられなくなった。そんな話をときどき聞きます。人間は、つい人からの評価によって自分の価値を判断してしまいがちなのです。ですが、人の評価くらいあてにならないものはありません。どれほどの名声も、時間が過ぎれば忘れられてしまうし、高い評価を受ければ、足を引っ張ろうとして悪いうわさ話を広めるような人も出てくるからです。人からの評価に自分の人生の土台を置くのは、まるで、流れ去る砂の上に土台を置くようなもの。忘れられてゆくことを恐れたり、噂話に一喜一憂したりしていては、安らかな心で毎日を過ごすことなどできないでしょう。
 何があっても決して変わることのないもの。神様の愛にこそ、わたしたちは人生の土台を置くべきだと思います。神様からわたしたちへの愛は、何があっても決して変わることがありません。その愛をしっかり受け止め、その愛に応えて生きることで、わたしたちは、どんな状況に置かれても、自分の人生には価値があると確信できるようになります。神様の子どもであり、わたしたちの兄弟姉妹である人たちを放っておくことはできないという気持ちに駆られて行動するたびごとに、わたしたちの人生の土台はより堅固なものになってゆくのです。
 神様と愛の絆で結ばれている限り、わたしたちは神の子としての自分に誇りを持つこともできます。神の子であり、兄弟姉妹である仲間を見捨てるならば、わたしたちはそんな自分を評価することはできないでしょう。自分で自分を恥じるようになれば、人からどんなに評価されたとしても、その人の心に平和はありません。自分の心に正直に生きて、自分に誇りが持てること、自分の人生には価値があると確信できることの方が、人からの評価よりずっと大切なのです。
 人からの評価に、一喜一憂する必要はありません。大切なのは、神様をしっかり受け止め、神様の愛を生きること。隣人の苦しみに心を閉ざすことなく、自分の心に正直に生きることです。人からの評価に気を散らすことなく、ただ神様の愛に応えることだけを考えてこの四旬節を過ごすことができますように。