バイブル・エッセイ(274)身代わりの愛


身代わりの愛
 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。―狼は羊を奪い、また追い散らす。―彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」(ヨハネ10:11-18)
 良い羊飼いは、狼に襲われた一匹の羊を救い出すためにさえ自分の命を捨てるほど、深く羊たちを愛しています。良き羊飼いである神様は、羊であるわたしたちのためならば命を捨てても惜しくないと思うほど、わたしたちを愛してくださっている。そのことを心に刻みたいと思います。
 先日、テレビのニュースを見ていると、悲惨な交通事故で突然に子どもを奪われたお父さんが、涙を流しながら絞り出すような声で「わたしが代わってあげたかった」と言っておられる様子が映し出されていました。それは、テレビで見ているわたしも思わず涙ぐまずにいられないほど真実な言葉でした。このお父さんは、車にはねられた幼い娘がどれほど痛い思いをしたか、家族とも会えないまま一人ぼっちで死んでいくとき、どれほど悔しく、またさびしい思いをしたか、そう思って胸がつぶれるほどの苦しみを味わっておられたのでしょう。そして、心の底から「わたしが代わってあげたかった」とおっしゃったのだと思います。自分のことなどまったく考えずにただ子どもの苦しみを思う愛、子どものためならばどんな苦しみも自分が引き受けるという捨て身の愛がこの言葉から感じられます。それが親の愛というものなのでしょう。
 父なる神様は、きっとこのお父さんのような気持ちでわたしたちを愛してくださっているだろうと思います。全知全能の神は、これまでに人類が味わった苦しみ、今味わっている苦しみ、これから味わうことになる苦しみのすべてを天国からご覧になり、深く憐れまれました。人間が味わう痛み、悔しさ、絶望をつぶさに見て、胸がつぶれるほどの苦しみを感じられたのです。あるとき、その思いが極まって「わたしが代わってあげたい」と望まれ、実際にその通りになさいました。人間となってこの地上に現れ、わたしたちの身代わりとして十字架上で死なれたのです。
 痛みや孤独、絶望の中で苦しんでいるとき、もうどうしようもないとさえ思えるとき、神様のこの愛を思い起こしたいものです。神様はわたしたちの苦しみを知り、共に苦しんで、「わたしが代わってあげたい」とさえ思ってくださっています。そのことを思えば、わたしたちはきっとどんな苦しみでも乗り越えていくことができるでしょう。神は、わたしたちの苦しみをすべて背負い、身代わりになって死んでくださったのです。
※写真の解説…六甲山の新緑。