バイブル・エッセイ(812)満ちてゆく愛


満ちてゆく愛
 わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。(エフェソ1:3-10)
「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが頭であるキリストのもとに一つにまとめられる」とパウロは言います。天地創造の前からわたしたちを愛しておられる神の愛が、キリストにおいて完成した。このキリストの愛の中で、全人類が一つにまとめられてゆくということでしょう。そうだとすれば、「時が満ちる」とは、キリストの愛が世界を満たし、全人類を包み込んでゆくというイメージに重なって来ると思います。
 白浜満司教様が、「時は過ぎてゆくものではなく、満ちてゆくものだ」とおっしゃいました。7月になったかと思ったら、もう今日は15日で、時間はあっという間に流れ去ってゆくようにも感じられます。ですが、振り返ってみれば、すべてが流れ去ってしまったわけではありません。時間の流れの中で与えられた神様の恵みは、わたしたちの心の中にしっかりと残っているのです。時間の流れの中で降り注いだ神様の愛は、わたしたちの心を静かに満たしてゆく。そんな風に感じます。
 ですが、毎日をただ忙しい忙しいだけで過ごしてしまい、自分がどれだけ神様から愛されているかを振り返る時間がないならば、せっかく降り注いだ愛も、心に入らないまま流れ去ってしまいます。今日一日を振り返って、元気に働くことができた、食事がおいしく食べられた、友だちと楽しい時を過ごすことができた、そういったことを一つひとつ感謝し、神様の愛を一滴一滴しっかりと受け止めてゆく中で、わたしたちの心は満たされてゆくのです。「わたしは、これほどまでに神様に愛されている。神様の愛に気づかないまま苦しんでいる人たちのために、何かせずにはいられない」と思うほど、神様の愛がわたしたちの心に満ちたとき、神様の愛はわたしたちから世界に向かってあふれ出します。わたしたちの心からあふれ出した神様の愛が、苦しんでいる人、助けを求めている人たちの心を満たし、さらにあふれ出して世界中の人の心を満たしてゆく。こうして、世界がキリストの愛で満たされ、全人類がキリストの愛で一つに結ばれてゆく。救いの完成とは、そのようなことではないかとわたしは思っています。
 わたしたちに与えられている使命は、一言でいえば「心を愛で満たす使命」です。まずは自分自身の心を愛で満たし、そしてその愛を苦しんでいる人、助けを求めている人たちと分かち合うことで、その人たちの心も満たしてゆく。それがわたしたちの使命なのです。日々の仕事に追われ、心に愛がなくなってしまえば、何もすることができません。まずは、日々の生活の中で、神様の愛を一滴もらさずしっかり受け止めることから始めたいと思います。