バイブル・エッセイ(553)「十字架だけを誇る」


「十字架だけを誇る」
 皆さん、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。(ガラテア6:14-18)
 「主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」とパウロは言います。地に属する人は、財産や地位、名声にしがみつき、自分自身を誇るでしょう。ですが、天に属する人は、すべてを手放し、十字架にかけられたキリストだけを誇るべきなのです。
 弟子たちを宣教に派遣するとき、イエスは「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」と言いながら、「財布も袋も履物も持って行くな」と命じます。これは、まったく逆のように思えることです。さまざまな危険が待ち受ける世の中に弟子を送り出すなら、お金や服、武器などを十分に持たせるのが普通でしょう。きっとイエスは、相手と同じ土俵に乗るなと言いたいのではないかと思います。もしこの世の人々がお金の力で弟子たちを滅ぼそうとするとき、「金ならこっちにだってある」とお金の力で立ち向かえば、泥沼の争いになってしまうでしょう。権力や武力についても同じことが言えます。地上の力に対して、地上の力で立ち向かってはならないのです。わたしたちは、地上の力に対して神の力で立ち向かうべきなのです。
 では、どうしたら神の力で立ち向かうことができるのでしよう。お金や権力、武器にしがみつき、それを使って相手に立ち向かおうとしているかぎり、結局のところ自分を頼ることになります。たくさんのものを持っている自分に頼り、自分の力で戦うことになるのです。神の力で戦いたいならば、すべてを神に委ねることです。お金も権力も武器も、すべてを手放して神に委ねたとき、神の力がわたしたちのものになります。神の力がわたしたちを満たし、わたしたちは神の手の中にある道具となるのです。どんな地上の力も、神にすべてを委ねている者を怖がらせたり、屈服させたりすることはできません。
 自分のすべてを、命までも含めて神の手に委ねるとき、つまり自分をキリストの十字架にかけるとき、神の力がわたしたちを満たします。その意味で、わたしたちには、キリストの十字架以外に誇るものがないし、他に誇るものがあってはならないのです。わたしたちが誇るべきなのは、自分自身ではなくキリストの十字架なのです。
 神の力は謙遜な心に宿ります。謙遜こそがわたしたちの力だと言っていいくらいです。感情を高ぶらせて怒鳴りこんでくる相手に、プライドを傷つけられたからと言ってこちらも怒鳴り返せば、終わりのない争いが始まるでしょう。そんなときには、プライドを手放し、神にすべてを委ねることです。謙遜な心で相手をやさしく受け止め、キリストの真理によって話し合えば、必ず相手もわかってくれるでしょう。謙遜な人は、はじめから自分の力に頼っていないので、たとえ物事が自分の思った通りにならなくても、決して絶望することがありません。すべてを神に委ねて、あらゆる困難を乗り越えてゆくことができるでしょう。謙遜こそ、わたしたちの力なのです。
 自分の力で何かをするという発想は捨てましょう。すべてを神の手に委ね、神の力でしていただくのです。結果として、それが一番大きな力になります。自分の力ですることさえやめれば、すべてが思いのままになると言っていいくらいです。キリスト共に自分を十字架にかけ、ただその十字架だけを誇ることができるよう神に祈りましょう。