バイブル・エッセイ(787)人間をとる漁師


人間をとる漁師
 ヨハネが捕らえられた後、イエスガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。(マルコ1:14-20)
 魚をとる漁師だったペトロに、イエスは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と呼びかけます。「わたしについて来れば、魚ではなく、人間をとる漁師にしてあげよう」というのです。「人間をとる漁師」とはいったいなんでしょうか。どうしたら、「人間をとる漁師」になれるのでしょう。
 魚をとる漁師たちは、一匹でも多くの魚をとるために、一晩中でも骨身を惜しまずに働きます。陸にあがっても、次の漁のために入念に網を繕い、明日はどこに網を下ろせば魚がとれるかと考え抜くのです。人間をとる漁師も、それと同じでしょう。人間をとる漁師とは、一つでも多くの魂を救うために、骨身を惜しまず働く人のことなのです。太陽がぎらぎら照りつける夏の日も、寒風が吹きすさぶ冬の日も、黙々と漁を続ける漁師のように、農園で収穫を続ける農夫のように、一つでも多くの魂を救うために働く人。それが「人間をとる漁師」なのです。それは、神父や修道者だけの使命ではないでしょう。すべてのキリスト教徒は、「人間をとる漁師」になるよう招かれているのです。
 では、どうしたら「人間をとる漁師」になれるのでしょう。新米の漁師は、はじめのうち自分だけで魚をとることができません。一緒の船に乗っている父親や先輩たちから漁の仕方を学び、少しずつ魚がとれるようになってゆくのです。どこにゆけば魚がいるのか。どんなときどんな餌を使えばよいのか。嵐のときにはどうしたらいいか。不漁のときにはどうするか。そのようなことを、先輩たちから学ぶ中で一人前の漁師になってゆくのです。
 「人間をとる漁師」もそれと同じでしょう。エスに従い、イエスがすることを見聞きする中で、わたしたちは少しずつ、「人間をとる漁師」になってゆくのです。救いを求めている人たちがどこにいるのか。人々が求めている救いとは何なのか。周りの人たちから反対を受けたときにはどうすればいいか。どんなに呼びかけてもこたえてもらえないときには、どう振舞えばよいか。そのようなことをイエスから学ぶ中で、わたしたちは一人前の「人間をとる漁師」になってゆくのです。
 漁師は、一つ一つの漁からも学んでゆきます。たくさんとれたときは、なぜとれたのか、どうすればまた同じようにとれるのかを研究し、とれなかったときには、なぜとれなかったのか、どうすればとれるようになるかを研究するのです。「人間をとる漁師」もそれと同じだと思います。どんな言葉が相手の心に届いたのか、どんな行動が相手の助けになったのかを、神に感謝しながらしっかりと心に刻み、どんな言葉が相手を躓かせたのか、どんな行動が相手を傷つけたのかを、神の前でよく反省する中で、わたしたちは少しずつ熟練の「漁師」になってゆくのです。
 漁師にとっての一番大きな喜びは、もちろん魚がたくさんとれることです。「人間をとる漁師」も同じで、誰かが神の愛と出会い、救われる姿を見るのが、人生の何よりの喜びなのです。救われた人々の笑顔と出会うために、その笑顔を見て、わたしたち自身も笑顔になれるように、今日もイエスと共に「人間をとる漁」に出かけましょう。