バイブル・エッセイ(848)自分をゆるす

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自分をゆるす

 イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言 うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(ヨハネ8:1-11)

 姦通の現場で捕らえられた女性に石を投げようとする人々に、イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言いました。もし自分自身も罪を犯したことがあり、神様からゆるされた体験を持つならば、この女もゆるしてやるべきではないかということでしょう。その言葉を聞いた人たちは、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去って」しまいました。歳を重ねた人ほど、思い当たることが多かったのでしょう。
 わたしたちは、人を厳しく裁くとき、自分自身のことはすっかり棚に上げている場合が多いようです。自分自身の中にもうしろめたいことがあるのに、そのことは忘れて他の人を責めてしまうのです。いえ、むしろ、自分自身の中にうしろめたいことがあるから、それを忘れるために他の人を責めると言ってもいいかもしれません。自分のことはすっかり棚に上げて他人を責めることで、一時、理想の自分になったように錯覚し、良心の痛みを忘れられるのです。自分の思った通り、理想的な生き方ができない自分自身へのいら立ちを、他の人にぶつけるという側面があるからこそ、他人を裁く言葉はより一層過熱し、厳しさを増していく。そんな気がします。
 では、どうしたら石を捨て、隣人の弱さや不完全さを受け入れられるようになるのでしょうか。そのためには、自分自身の弱さや不完全さを直視し、それを神様にゆるしていただく必要があると思います。神様にゆるしていただき、自分自身に対するうしろめたさや、弱くて不完全な自分を責める気もちがなくなれば、もう隣人を責める必要はなくなるからです。神様からゆるしていただくとき、わたしたちは相手の弱さや不完全さに共感し、それでも自分たちが神様からゆるされていることを、相手と共に感謝できるようになるのです。自分をゆるすことができず、厳しく責め続ける人は、他の人も同じように責めてしまう。神様からゆるされ、自分をゆるすことができた人は、他の人も同じようにゆるさずにいられなくなる。それが普遍の真理であるように思います。
 四旬節のあいだ、ゆるしの秘跡を受けることが特に勧められています。それは、自分がゆるしてもらうためだけでなく、他人をゆるせるようになるためでもあるのです。ゆるしの秘跡は、英語圏では広く「和解の秘跡」と呼ばれています。それはこの秘跡が、神と和解し、自分自身と和解し、隣人たちと和解するための秘跡だからです。神様にゆるしていただくために、自分自身の弱さや不完全さを直視しする勇気を願い求めましょう。