バイブル・エッセイ(849)しもべの身分

f:id:hiroshisj:20190414180933j:plain

しもべの身分

 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。(フィリピ2:6-11)

 キリストは「神の身分」であったのに、それに固執せず「かえって自分を無にしてしもべの身分になり、人間と同じ者」になった。それゆえに、神はキリストを高く、天の栄光に挙げられたというのです。もしキリストが「神の身分」にとどまったとすれば、神として世界を自分の意のままに動かすことがキリストの栄光だったでしょう。しかし、「しもべの身分」となったキリストは、神のみ旨のままに自分を差し出すことによって栄光を輝かせたのです。
「しもべの身分」という言葉に注目したいと思います。わたしたち人間は、どこまでいっても神のしもべであり、神になることはできない。しもべにはしもべとしての身分にふさわしい幸せがあることを、わたしたちはつい忘れてしまうからです。

 「身分」と言えば時代錯誤のようにも思えますが、「身の丈」と置き換えてもいいでしょう。たとえば、小さな子どもが何千円もの大金を手にすれば、駄菓子をありったけ買って食べ、お腹を壊してしまうかもしれません。大きなお金は、親に預けておくのが「身の丈」に合った行動だと言っていいでしょう。

 わたしたちも、基本的にはそれと同じです。大人になれば思慮分別は増しますが、それでも、人間にはやはり限界があります。たとえば、わたしたちは自分がいつ死ぬのかを知りません。今日にでも交通事故や病気で死んでしまう可能性はあるのですが、それが分からないのです。欲望に目がくらんで何かを手に入れたとしても、それを楽しむ時間はないかもしれません。人間は、自分にとって本当に必要なものが分からないと言っていいでしょう。

 あるいはたとえば、わたしたちは家族や友人のことを理解し尽すことができません。それにもかかわらず、まるですべてが分かったかのように相手を断罪し、厳しい言葉を投げつけてしまうことがあります。相手のことはもちろん、自分のことさえよく分かっていないわたしたちは、自分の思いのままに行動することで、かえって身を滅ぼしてしまうのです。
 人間には限界があること、わたしたちはどこまで行っても神にはなれず、「しもべの身分」であることを忘れないようにしたいと思います。一日の初めに、祈りの中で神のみ旨を尋ね、それに従うこと。日々与えられた使命のために、自分を惜しみなく差し出すこと。感情や欲望に押し流されず、たえず神のみ旨を確かめながら進んでゆくことこそ、わたしたちの「身の丈」に合った賢明な行動であり、そうすることによってのみ、わたしたちは日々を幸せにいきられるのです。
 しもべと言われてあまりいい気はしないかもしれませんが、「神のしもべ」となれば話は別です。私利私欲を捨て、驕り高ぶることなく、神のため、人々のために自分を喜んで差し出すことによって「神のしもべ」となる栄光に達することができるよう、心を合わせて祈りしまょう。