バイブル・エッセイ(874)いつくしみの扉

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いつくしみの扉

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』」(ルカ16:19-26)

 地獄の炎に焼かれて助けを求める金持ちに、神は「わたしたちとお前たちの間には大きな淵がある」と答えます。淵とは何でしょうか。それはきっと、無関心だと思います。金持ちはラザロの苦しみにまったく関心がなく、ラザロに対して閉ざされています。その無関心が、暗い淵となってラザロと金持ちのあいだに広がっているのです。その淵は、神でさえ埋めることができません。その淵を越えられるものがあるとすれば、それは、貧しい人たちの苦しみに共感する愛だけでしょう。

 カトリック教会では、特別な祝いの年を聖年と定め、各教会に「聖年の扉」を指定することがあります。その門をくぐることによって、神の恵みの世界へと足を踏み入れることができるという特別な門です。でも、神の恵みの世界に入るための門は、実は、もう一つあります。それは、わたしたちの心の中にある、いつくしみの門です。苦しんでいる人を見て、その人に対して心を開くとき、わたしたちは神の恵みの世界に足を踏み入れることができるのです。

 神の恵みは、もちろん聖堂で祈っているときにも与えられます。神に自分を委ね、心を開くとき、開かれた心の扉から神の恵みが豊かに注がれるのです。でも、恵みが注がれるのは、天に向かって祈っているときだけではありません。目の前にいる兄弟姉妹や、苦しんでいる誰かに向かって心を開くとき、わたしたちの心に天からの恵みが豊かに注がれるのです。苦しんでいる誰かに心を開くとき、それまで、まったく思いもしなかったような気付きやひらめき、神の愛の深い実感、生きてゆくための勇気や希望などが天から降り注ぎ、わたしたちの心を満たすのです。心が通い合うとき、わたしたちのあいだに天国が生まれると言ってもいいでしょう。

 これは、教会や幼稚園、刑務所などで司牧をしていて痛切に感じていることです。聖堂での静かな祈りと、苦しんでいる人々とのかかわりの中で生まれる祈りと、その二つが司祭としてのわたしの霊的な支えです。二つの門は、表裏一体だとも感じます。どんなに神の前で祈ったとしても、苦しんでいる人に対して心を閉ざすなら、恵みの門はぴしゃりと閉ざされ、神の恵みはもう注がれなくなります。何とかしてあげたいと思って、苦しんでいる人に対して心を開いたとしても、沈黙の中でしっかり祈っていないなら与えるものが何もありません。キリストの弟子として生きるためには、いつも、心の扉を二つの方向に向かって開いている必要がある。日々の生活の中でそう感じます。

 今日のたとえ話の金持ちは、生きているあいだ門前で苦しんでいたラザロに心を閉ざし、死んだ後もまるで召使か何かのように思っていて、ラザロにまったく関心がありません。その無関心が金持ちを天国から遠ざけているのですが、そのことに気づかないのです。聖年の扉は、わたしたちの心の中にもあります。苦しんでいる隣人たちに向かって、いつくしみの扉を開くことができるよう神に祈りましょう。