バイブル・エッセイ(875)特別な謙虚さ

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特別な謙虚さ

 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17:7-10)

 神のしもべである以上、神から自分に与えられた使命を果たしても、威張ったり、見返りを求めたりするべきでないとイエスは弟子たちに諭します。これは、神から与えられた使命を生きるすべての者に向けられた忠告と言っていいでしょう。
 与えられた使命を果たしただけなのに、それをまるで自分の手柄のように誇り、見返りを要求し始める。そのようなことはよくあると思います。たとえばわたしは日々、神父として与えられた使命を果たしています。ミサを捧げたり、幼稚園や刑務所で話したり、それがわたしに与えられた使命だからです。ですが、ときどき、心に思い上がりが生まれます。「わたしは、こんなにみんなの役に立っている。偉い人間だ」と思い込み、「尊敬されて当然だ、感謝されて当然だ」と思うようになるのです。誰かにぞんざいな言葉遣いで話しかけられると、「わたしを誰だと思ってるんだ」と腹を立てて不愛想な態度を取ったり、自分のしていることを誰も評価してくれないと、「こんなに一生懸命にやっているのに、なぜ誰も褒めてくれないんだ」と不機嫌になったり。そんなことがつい起こりがちです。
 そんなときに思い出さなければならないのは、自分は単に、神から与えられた使命を果たしているにすぎない。神のしもべに過ぎないということです。与えられた使命を、当然に果たしているだけであって、決して「偉い人間」ではないのです。神から神父という大切な使命を与えられ、人々のために自分を差し出して働くことができる。そのこと自体が、とるに足りないしもべであるわたしにとっては感謝すべきことです。
 皆さんの場合であれば、たとえば子育ての使命があります。子どもが生まれたとき、おそらく、こんな自分に元気な子どもが与えられたことを神に感謝したことでしょう。ですが、子どもが育ってくると、子どもに対して、あるいは神様に対してつい不満を言ってしまいがちです。「こんなに苦労して育ててやったのに、なんで言うことを聞かないんだ」とか、「なぜ『ありがとう』の一言もないんだ」とか、そのような言葉が、つい口から出てしまうのです。そんなときには、自分がただのしもべに過ぎないことを思い出すべきでしょう。わたしたちは、神様から子育てという使命を与えられたしもべ。苦労して子どもを育てるのが当たり前なのです。尊敬してもらえない、感謝してもらえないというような不満を言うことはできません。むしろ、神様から子どもを預かり、育てるという尊い使命を与えられたことに感謝すべきなのです。結婚やそれぞれの職業など、すべての使命について同じことが言えるでしょう。
 与えられた役割を立派に果たすことが、しもべには期待されています。ですが、使命をどんなに立派に果たしたとしても、思い上がれば台無しです。使命を立派に果たしながら、それでいてまったく思い上がらない。しもべには、そのような特別な謙虚さが求められているのです。神への感謝を忘れず、謙虚な心で奉仕の道を歩めるように祈りましょう。