バイブル・エッセイ(885)愛の受肉

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愛の受肉

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた。(マタイ1:18-24)

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」というイザヤの預言が実現し、神が人間となってわたしたちのもとに来られた。それがイエス・キリストなのだとマタイは伝えています。ですが、なぜ神は人間になる必要があったのでしょう。全能の神ならば、天からでも人を助けられたのではないでしょうか。

 先日、幼稚園の子どもからもこの質問を受けました。非常に鋭い質問です。わたしはこう答えました。「人間にならなかったら、こうやって目を見て話したり、にっこりほほ笑んだり、手を握ったりできないだろう。それじゃ、『きみがだいすきだよ』って気持がなかなか伝わらない。だから神さまは人間になったんだと思うよ。」実際に手を握り、顔を近づけて話したせいもあってか、子どもはそれで納得してくれたようでした。もう少し難しく言えば、人間に愛を伝えるために、神は人間になる必要があったということです。

 愛は、言葉だけではなかなか伝わりません。「神はすべての人を愛している。君も神の子だ」といくら口先で言われても、それだけでは心に響かないのです。ですが、誰かが手を握り、目に涙を浮かべながら「あなたは、本当にかけがえのない存在なんだよ」と言ってくれれば、きっと心が動くでしょう。愛は、相手の心に響いたとき、初めて本当の意味で相手に伝わるのではないかとわたしは思います。わたしの経験に基づけば、ただ頭で理解しただけの愛は、生きてゆくための力になりません。心に響き、心を揺さぶる愛だけが、生きてゆくための力になるのです。

 笑顔にしても、手の温もりにしてもそうですが、言葉に愛の響きを与えるためには、やはり体が必要なのではないかと思います。心の奥深くから湧き上がった愛が、わたしたちの心を揺さぶり、目や表情、口、手など全身から発せられるとき、その愛は響きとなって相手の心に届き、相手の心を揺さぶる。そんな風にわたしは思っています。もちろん、神さまにはそれ以外の仕方もできたでしょう。ですが、やはり一番確実なのは、相手の目を見、手を握り、にっこりほほ笑みながら、あるいは目に涙を浮かべながら話しかけることなのです。それで、神さまは人間になった。イエス・キリストとなって貧しい人々、病気の人々、社会の片隅に追いやられた人たちのもとへゆき、ときにほほ笑み、ときに涙をこぼしながら愛を伝えた。そういうことだったのではないかと思います。

 この世の中には、言葉だけ、口先だけの愛があふれているような気がします。だから、これだけ愛という言葉が語られながら、「わたしは愛されている。わたしはかけがえのない存在だ」と実感できる人が少ないのです。この時代も、確かに愛の受肉を必要としています。イエス・キリストがわたしたちの心に宿り、わたしたちの体を通してこの世界に真実の愛を伝えてゆくことができるように、わたしたちがキリストのまなざし、キリストの手の温もり、キリストの優しい声になることができるように祈りましょう。