バイブル・エッセイ(769)顔の輝き


顔の輝き
 エスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。(マタイ19:1-9)
「イエスの姿が弟子たちの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」と、マタイは伝えています。十字架上での死について語り始めたイエスが、動揺する弟子たちを連れて山に登り、弟子たちと一緒に祈っていたときの出来事です。なぜ、イエスの顔は急に輝き始めたのでしょう。それは、エスが自分の使命を確信し、すべてを父なる神に委ねたからだと思います。不安や恐れがなくなり、心が喜びで満たされるとき、わたしたちの顔は輝き始めるのです。
 これは、ちょうど電球が輝くのに似ています。電球は、それ自体として輝く力を持っていませんが、電気が通ると輝き始めるようにできています。わたしたち人間は電球で、電気は神さまの愛と考えたらいいでしょう。不安や恐れは、電気の流れを悪くする不純物のようなものです。すべてを神さまの手に委ね、「ああなったらどうしよう、こうなったら困る」といった思いを捨てれば捨てるほど、たくさんの愛がわたしたちに流れ込むようになり、輝きが強くなってゆきます。
 無理に輝こうとすれば、それは逆効果です。自分で自分を輝かせようとすれば、「うまくゆかなかったらどうしよう。これで十分だろうか」といった不安や恐れが生まれ、かえって輝きを失ってしまうのです。そのような思惑を捨て、すべてを神さまの手に委ねたときに人間は一番輝くように作られているのです。「よく見せよう、よく見せよう」とすればするほど、わたしたちは輝きを失ってゆきます。電球をどんなに見栄え良く飾り付けても、それだけでは輝かないのです。
 すべてを神さまの手に委ねるということは、神さまを信じるということに他なりません。「神さまはわたしを愛してくださっている。すべてを一番よくしてくださるに違いない」と信じるとき、わたしたちは将来への不安や恐れから解放されるのです。神さまの愛に心を開くと言ってもいいでしょう。恐れや不安で心を閉ざしていると、せっかくの神さまの愛が心に流れ込んでこないのです。神さまの愛の電流は、いつもこの世界に向かってフルに送電されています。受け取るためには、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」と言ってくださる神さまの愛を信じ、ただ心を開くだけでよいのです。
 このことは、個人だけでなく、教会全体にも当てはまるでしょう。教会の将来に不安を感じ、なんとかしようとじたばたすればするほど、教会は輝きを失ってゆきます。輝きを失った教会にはますます人が来なくなるという悪循環が起こります。大切なのは、神さまの愛に心を開いているということです。豪華な教会を建てることができなくても、それさえあれば教会は輝きます。輝きの源である神さまの愛と、いつもつながっていることができるように祈りましょう。