バイブル・エッセイ(378)『星の光に導かれて』


『星の光に導かれて』
 エスは、ヘロデ王の時代にユダヤベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(マタイ2:1-2,9-11)
 暗闇の中で光を見つければ、人は自然と光の近くに集まるものです。暗闇の中にまばゆい光を見つけた博士たちが、光に引き寄せられて東方からはるばるやって来ると、そこに待っていたのはイエス・キリストだった。それが、「御公現の物語」だと言っていいでしょう。
 東京の「神の愛の宣教者会」でボランティアをしていたときに、シスターたちが部屋を訪ねてくれたことがきっかけで修道院のミサに出るようになり、洗礼を受けたという1人暮らしのお爺さんと出会いました。そのお爺さんは、シスターたちと出会うまで、宗教というのは人を騙してお金を巻き上げるものだと思っていたそうです。ですから、シスターたちがやって来たときもお爺さんは初め警戒しました。ところが、シスターたちは、訪ねて来るたびに心の底からの笑顔を浮かべています。お爺さんは不思議に思いましたが、その笑顔に引きつけられるようにして修道院まで足を運ぶようになったとのことでした。
 修道院のミサに通っているうちに分かったのは、シスターたちの喜びが祈りの中から生まれているらしいということでした。彼女たちの生活には、テレビもなければ豪華な食事もありません。およそ喜びを生むようなものは何もないのです。ただ祈りの中でイエス・キリストと出会うことから喜びが生まれているということは明らかでした。そのことに気づいたとき、お爺さんは、自分もその喜びの仲間に入りたいと思って洗礼を決意したそうです。シスターたちの笑顔の輝きに導かれて旅をし、そこにイエス・キリストを見つけたということです。これは、まさに現代版の「御公現の物語」だと言っていいでしょう。
 現代の社会には、このお爺さんのように孤独や疎外感、絶望の闇の中で苦しんでいる人たちがたくさんいます。星に導かれてイエス・キリストと出会ったなら、こんどはわたしたち自身がそのような人たちのために、喜びに輝く星になる必要があります。イエスから与えられた喜びによって光り輝くこと、そうすることで人々をイエスのもとに導くこと、それこそがわたしたちに与えられた使命なのです。
 新年に街を歩いていて、「世の終わりは近づきました。キリストを信じないなら地獄に落ちます」と呼びかけている人たちがいました。闇の中で苦しんでいる人たちに恐怖心を植え付け、恐怖心を利用してキリスト教を広めようというのです。これは、もう悪魔の仕業としか思えません。闇はもうすでに十分あるのです。その闇をさらに広げて一体何になるというのでしょう。
 わたしたちの宣教は、このようなものであってはならないと思います。わたしたちは、闇を広げることによってではなく、キリストと出会った喜びの光を輝かせることによって宣教するのです。「あの教会から出てくる人たちは、みんなうれしそうな、幸せそうな顔をしている。あの教会には何があるんだろう」、そう思って教会にやって来る人が出たなら、それこそ最高の宣教です。わたしたち一人一人が、またわたしたちの教会が、暗闇に輝く光、人々を導く光になれるよう心から願います。
※写真…カトリック六甲教会のクリスマス飾り。