バイブル・エッセイ(1149)小さな愛の種

小さな愛の種

「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。(マルコ4:26-34)

 「神の国」はからし種のようなものだ、「土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」とイエスはいいます。「神の国」とは、わたしたちの心の中に、またわたしたちのあいだに実現した愛と調和の世界だといっていいでしょう。わたしたちが神のみ旨のままに愛を生き、互いに愛し合うことによって、この地上に「神の国」が姿を現すのです。
 「神の国」は、わたしたちの心の中に小さな種が蒔かれることから始まります。その種とは、「わたしは神さまから愛されている。わたしの人生には確かに意味がある」という確信だといってよいでしょう。その種は、ほとんどの場合、日々の生活の中のちょっとしたことから生まれます。お父さんやお母さん、先生、友だちなどがかけてくれるやさしい言葉、思いやりのある行動、にっこりほほ笑みかける笑顔などを通して、わたしたちの心の中に、小さいけれど、しかし確かな「神の国」の種。愛の種が蒔かれるのです。身近な人たちの存在を通して、わたしたちの心に神さまの愛の種が蒔かれるといってもいいでしょう。
 蒔かれた愛の種は、わたしたちの心の中で育ち始めます。愛で満たされた心は、困っている人や苦しんでいる人を見たときに、放っておくことが出来ないのです。「その人たちのために何ができるだろう、その人たちは何を求めているのだろう」と考え、相手の心に共感していくなかで、愛はどんどん育っていきます。若者であれば、子どもたちを幸せにするために幼稚園の先生になろうとか、病気の人たちのために看護師、医師になろうという気持ちが育っていくことがあります。高齢者であっても、子どもや孫のために、地域のために何ができるだろうと考えているうちに、だんだんやりたいこと、できることが見つかって、心が大きく育ち始めるでしょう。こうして、小さな愛の種は大きく育っていき、やがてたくさんの実を結ぶのです。
 逆に、人目につくような大きな種は「神の国」の種ではないともいえるでしょう。たとえば、人から称賛されることでいい気持ちになり、もっと人から称賛されるようなことをしたいと願う野心の種。「大きな野心」というくらいで、これは大きな種ですが、この種が大きな木に育つことは決してありません。途中で必ず思い上がって失敗し、それほど大きくならないうちに立ち枯れてしまうのです。人目につかない小さなことに愛を込める。自分のことをわきに置いて、みんなの幸せのために生きる。そのような人こそ、人生の最期まで成長を続け、神の前でもっとも大きな木に育つのです。
 小さな愛の種こそが、もっとも大きな木に育つ種、「神の国」の種だということを忘れないようにしたいと思います。周りの人たちを通してわたしたちの心の中にまかれた神さまの愛の種、やさしい気持ちを大きく育てることによって、わたしたちの心の中に、そしてわたしたちのあいだに「神の国」を実現していくことができるよう祈りましょう。

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