バイブル・エッセイ(1151)手を置けば生きる

手を置けば生きる

 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。(マルコ5:21-24、35-43)

 会堂長のヤイロが、イエスに「どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」と懇願する場面が読まれました。イエスが手を置けば、必ず、測り知れないほどの神の恵みが娘に注がれる。娘は再び生きる力を取り戻す。ヤイロはそう確信していたのです。
 手を置くことで生きる力を取り戻すということは、確かにあります。わたし自身が経験していることとしては、「病者の塗油」がまさにそのような出来事です。寝たきりで、もう長くは持たないと医師からいわれている人、息も絶え絶えで寝ているような人であっても、家族が「神父さんがきてくれたよ」と大きな声で呼びかけ、わたしが祈りを捧げて油を塗ると、必ず何か反応してくれます。うれしそうな顔をする人もいるし、寝たきりの体をなんとかして起き上がらせようとする人もいます。話せる人の中には、「ありがとうございます。わたしは本当に恵まれている」といってくれる人もいます。司祭が手を置き、油を塗ることで、確かにその人の上に神さまの恵みが注がれるのです。そのあとしばらく生きる方もいるし、すぐに帰天される方もいますが、手を置くことでその人に生きる力が注がれたのは間違いないでしょう。
 それは、まさにその人の信仰がその人を救ったのだと思います。この「病者の塗油」には神の恵みが宿っていると固く信じる人だけが、この秘跡を通して神の恵み、生きる力を受け取ることができるのです。「恐れることはない。ただ信じなさい」とイエスがいうのは、そのためでしょう。わたしたちが心を合わせてその人のために祈り、神の恵みを願うことで、その人の信仰はさらに強められ、より豊かな恵みが注がれます。それが「病者の塗油」の秘跡の意味だといってよいでしょう。
 「病者の塗油」は秘跡なので別格ですが、似たようなことは、わたしたちが病気の人を訪問するたびに起こります。わたしたちが寝たきりのその人にやさしく話しかけたり、その人の手を握ったりするたびに、わたしたちを通して神の恵みがその人に注がれるのです。手を触れなくても、ただその人の寝ている部屋に入り、その人のそばにいるだけでも、わたしたちの存在のぬくもりを通して神の恵みがその人に注がれます。その人を思うわたしたちの心の中にイエスが宿り、イエスがその人に触れて癒してくださる。そう考えてもいいでしょう。わたしたちの心の中におられるイエス、わたしたちの心に宿った神の愛が、その人に生きる力を与えるのです。
 「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」とパウロはいいます。イエスの心は豊かな愛で満たされていたのに、その愛を人々と分かち合い、人々の苦しみを自分自身の苦しみとして背負ったということでしょう。わたしたちも、神さまからいただいた愛の恵みを病気の人たち、苦しんでいる人たちと惜しみなく分かち合うことができるように祈りましょう。

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