バイブル・エッセイ(849)しもべの身分

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しもべの身分

 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。(フィリピ2:6-11)

 キリストは「神の身分」であったのに、それに固執せず「かえって自分を無にしてしもべの身分になり、人間と同じ者」になった。それゆえに、神はキリストを高く、天の栄光に挙げられたというのです。もしキリストが「神の身分」にとどまったとすれば、神として世界を自分の意のままに動かすことがキリストの栄光だったでしょう。しかし、「しもべの身分」となったキリストは、神のみ旨のままに自分を差し出すことによって栄光を輝かせたのです。
「しもべの身分」という言葉に注目したいと思います。わたしたち人間は、どこまでいっても神のしもべであり、神になることはできない。しもべにはしもべとしての身分にふさわしい幸せがあることを、わたしたちはつい忘れてしまうからです。

 「身分」と言えば時代錯誤のようにも思えますが、「身の丈」と置き換えてもいいでしょう。たとえば、小さな子どもが何千円もの大金を手にすれば、駄菓子をありったけ買って食べ、お腹を壊してしまうかもしれません。大きなお金は、親に預けておくのが「身の丈」に合った行動だと言っていいでしょう。

 わたしたちも、基本的にはそれと同じです。大人になれば思慮分別は増しますが、それでも、人間にはやはり限界があります。たとえば、わたしたちは自分がいつ死ぬのかを知りません。今日にでも交通事故や病気で死んでしまう可能性はあるのですが、それが分からないのです。欲望に目がくらんで何かを手に入れたとしても、それを楽しむ時間はないかもしれません。人間は、自分にとって本当に必要なものが分からないと言っていいでしょう。

 あるいはたとえば、わたしたちは家族や友人のことを理解し尽すことができません。それにもかかわらず、まるですべてが分かったかのように相手を断罪し、厳しい言葉を投げつけてしまうことがあります。相手のことはもちろん、自分のことさえよく分かっていないわたしたちは、自分の思いのままに行動することで、かえって身を滅ぼしてしまうのです。
 人間には限界があること、わたしたちはどこまで行っても神にはなれず、「しもべの身分」であることを忘れないようにしたいと思います。一日の初めに、祈りの中で神のみ旨を尋ね、それに従うこと。日々与えられた使命のために、自分を惜しみなく差し出すこと。感情や欲望に押し流されず、たえず神のみ旨を確かめながら進んでゆくことこそ、わたしたちの「身の丈」に合った賢明な行動であり、そうすることによってのみ、わたしたちは日々を幸せにいきられるのです。
 しもべと言われてあまりいい気はしないかもしれませんが、「神のしもべ」となれば話は別です。私利私欲を捨て、驕り高ぶることなく、神のため、人々のために自分を喜んで差し出すことによって「神のしもべ」となる栄光に達することができるよう、心を合わせて祈りしまょう。

 

バイブル・エッセイ(848)自分をゆるす

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自分をゆるす

 イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言 うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(ヨハネ8:1-11)

 姦通の現場で捕らえられた女性に石を投げようとする人々に、イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言いました。もし自分自身も罪を犯したことがあり、神様からゆるされた体験を持つならば、この女もゆるしてやるべきではないかということでしょう。その言葉を聞いた人たちは、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去って」しまいました。歳を重ねた人ほど、思い当たることが多かったのでしょう。
 わたしたちは、人を厳しく裁くとき、自分自身のことはすっかり棚に上げている場合が多いようです。自分自身の中にもうしろめたいことがあるのに、そのことは忘れて他の人を責めてしまうのです。いえ、むしろ、自分自身の中にうしろめたいことがあるから、それを忘れるために他の人を責めると言ってもいいかもしれません。自分のことはすっかり棚に上げて他人を責めることで、一時、理想の自分になったように錯覚し、良心の痛みを忘れられるのです。自分の思った通り、理想的な生き方ができない自分自身へのいら立ちを、他の人にぶつけるという側面があるからこそ、他人を裁く言葉はより一層過熱し、厳しさを増していく。そんな気がします。
 では、どうしたら石を捨て、隣人の弱さや不完全さを受け入れられるようになるのでしょうか。そのためには、自分自身の弱さや不完全さを直視し、それを神様にゆるしていただく必要があると思います。神様にゆるしていただき、自分自身に対するうしろめたさや、弱くて不完全な自分を責める気もちがなくなれば、もう隣人を責める必要はなくなるからです。神様からゆるしていただくとき、わたしたちは相手の弱さや不完全さに共感し、それでも自分たちが神様からゆるされていることを、相手と共に感謝できるようになるのです。自分をゆるすことができず、厳しく責め続ける人は、他の人も同じように責めてしまう。神様からゆるされ、自分をゆるすことができた人は、他の人も同じようにゆるさずにいられなくなる。それが普遍の真理であるように思います。
 四旬節のあいだ、ゆるしの秘跡を受けることが特に勧められています。それは、自分がゆるしてもらうためだけでなく、他人をゆるせるようになるためでもあるのです。ゆるしの秘跡は、英語圏では広く「和解の秘跡」と呼ばれています。それはこの秘跡が、神と和解し、自分自身と和解し、隣人たちと和解するための秘跡だからです。神様にゆるしていただくために、自分自身の弱さや不完全さを直視しする勇気を願い求めましょう。

バイブル・エッセイ(847)後に残せるもの

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後に残せるもの

 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(ルカ13:1-5)

 事件や事故に巻き込まれて死んでいった人たちのことを、まるで他人事のように語る人たちに向かって、イエスは、「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言いました。同じ言葉を、2度繰り返していることからイエスの思いの強さがうかがわれます。突然の、思いがけない死は、わたしたちにとっても決して他人事ではありません。わたしたちは、いつ死がやって来てもいいように、いつも準備しておく必要があるのです。
 先日、ある葬儀に参列したとき、先輩の司祭から、「わたしたちもやがて、あのように冷たくなって、棺桶に寝かされる日が来る。そのときに、すべてが分かるだろう」と言われました。亡くなったのが自分と年齢の近い方だったこともあり、わたしはその言葉を聞いて深く考えさせられました。わたしは普段、まだしばらく生きられることを当然と思い、「あれもしなければ、これもしなければ」と仕事に追われて生活しています。ですが、そのことにどんな意味があるのか、立ち止まって考えることはあまりないのです。
 葬儀の後で、一緒に参列した人たちと話をしていて、一つ気づかされたことがありました。亡くなった方はとても高い地位につき、さまざまな業績を上げていた方だったのですが、「あんなに能力の高い人を失って残念だ」とか、「あの業績をさらに伸ばせたはずなのに」などと言って嘆く人は誰もいなかったのです。皆さん、「あの人のお陰で、わたしはどれほど助けられたか」「あの人からは、本当に大切なことを学ばせてもらった」などと言いながら、涙をぬぐっておられました。つまり、亡くなった方がこの世に残したのは、業績や評価ではなく、その方が人々に与えた愛だったのです。亡くなった方も、きっと天国からその様子を見て、自分の人生の意味がどこにあったかを知り、心から満足しておられるに違いない。わたしはそう思いました。棺桶に寝かされるときにすべてがわかるとは、きっとそういうことなのでしょう。
 そのように考えると、人生で一番大きな無駄は、地位や業績などのために人と争ったり、人を蹴落としたりすることでしょう。そのようなことをして地位や業績を手に入れたところで、結局、そのようなものは残らないのです。人を憎んだり、妬んだりするために使う時間こそ、人生の一番の無駄づかいと言っていいかもしれません。
「悔い改めなければ、皆同じように滅びる」という言葉を、自分自身に向けられた言葉としてしっかり受け止めたいと思います。もし時間を無駄づかいしていれば、突然に死がやって来たときにどんなに後悔しても手遅れなのです。いつ死が訪れてもいいように、心を整え、生活を整えてゆきましょう。

 

バイブル・エッセイ(846)自分を委ねる

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自分を委ねる

 イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。(ルカ9:28b-36)

「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」と聖書は伝えています。文脈から言って、その祈りは、イエスが「エルサレムで遂げようとしている最期」に関わることだっただろうと思われます。おそらく、イエスは祈りの中で自らの死について神に問い、自分の命を神の手に委ねる決断をしたのでしょう。その瞬間、イエスの顔の様子が変わり、真っ白に輝き始めたのです。
 イエスが自分を完全に神の手に委ねたこと、自分自身に死んだことによって、イエスの体が光を放ったということから、この出来事は「復活の先取り」とも言われます。自分自身に死ぬとき、わたしたちを通して復活の栄光が輝くのです。ですが、自分に死ぬ、自分を神の手にすっかり委ねるとはどういうことでしょう。
 わたし自身は、文章を書くときにこのことをよく体験します。説教の原稿やエッセイなどの文章を書くときに一番よくないのは、頭だけで考え、「こんなことを書けば受けるだろう」という予断をもって書き始めることです。そのような文章は、おもしろい文章になるかもしれませんが、残念ながらほとんどの場合、心に響く文章にはなりません。それでは、一過性で消えてしまう文章しか書けないのです。
 文章を書く前に、わたしは心を空にするようにしています。与えられたテーマだけを念頭に置き、「こう書いたらどうだろう」「ああ書けば受けるかもしれない」などという思いはすべて脇に置いて、ただ「神様、わたしを通してあなたのみ旨が行われますように。あなたがこの機会を通して人々に伝えたいことを、わたしを通してお伝えください」と祈るのです。すると、場合によっては数時間くらいかかることもありますが、ある瞬間にひらめきが訪れます。心の奥底から、「伝えるべきことはこれだ」という思いがほとばしり出てくるのです。そのようにして書かれた文章は、多くの場合、読者の心に残る文章になります。自分を空にするとき、神様の思いがわたしを通してあふれ出す。神様の愛が、わたしを通してあふれ出す。文章が輝きを放つ。そんな感じです。もちろん、焦って頭で書いてしまうこともありますが、そのような文章には輝きがありません。
 文章を一例にしてお話ししましたが、祈りの中で神様に自分をすっかり委ねるとは、予断を捨て去り、心を空にして神のみ旨に耳を傾けること。神の手に自分を委ねることだと言っていいでしょう。
 たとえば、物事が自分の思った通りにならず、「こんなはずじゃなかった」と思ったときには、その思いを脇に置き、「神様、与えられたこの状況の中で、何をすればよいのでしょうか」と問いかける。あるいは、たとえば、人助けをしていて「これ以上やったら自分の身に危険が及ぶ」「もうこれ以上はできない」と思ったときには、その思いを脇に置き、「神様、あなたのみ旨をわたしに教えてください」と問いかける。そして、神様の導くままに自分を差し出してゆくなら、そのときわたしたちの人生は復活の栄光を放つのです。人々の心に響く人生になると言ってもいいでしょう。自分に死ぬことによって復活の栄光を証出来るよう、共に祈ってゆきましょう。

 

バイブル・エッセイ(845)誘惑を退ける

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誘惑を退ける

 イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。(ルカ4:1-13)

 悪魔の巧みな誘惑を、イエスが簡潔な聖書の言葉によってきっぱり退けてゆく場面が読まれました。神の言葉で答えられてしまえば、悪魔はもうそれ以上何もできません。これこそ、悪魔の誘惑を退けるために最もふさわしい方法だと言っていいでしょう。
 誘惑を受けたときに一番よくないのは、相手の言葉に乗せられて、交渉を始めてしまうことです。アダムとイブの話でもおなじみの手口ですが、悪魔は人間の一番弱い部分に付け込んで誘惑し、「少しくらいは大丈夫かな」と人間に思わせようとします。そして、「そこまではできない」(私たちの声)「まあでも、このくらいなら大丈夫ですよ」(悪魔の声)などという交渉に引き込んでゆき、結局、人間を悪に引き込んでしまうのです。
 ちょうど、「振り込め詐欺」の手口に似ています。振り込め詐欺の犯人は、まず相手を信用させるような話をしたうえで、具体的に振り込む金額を提示します。そこで、「そんなには払えないよ」と言ってしまえば犯人の思う壺だそうです。「じゃあ、このくらいなら払えるだろう」と犯人は前より少ない金額を提示し、結局、相手を丸め込んでしまうのです。
 そんなときに、一番いい答えは「お金を払うつもりはまったくない。警察に通報する」と伝えることだそうです。相手の言葉をきっぱり拒み、正義に訴えるというというこの方法は、振り込め詐欺だけでなく、あらゆる誘惑を拒むのに役立つ方法だと言っていいでしょう。悪魔の誘惑にあったときには、「そんなことをするつもりは全くない。聖書にはこう書いてある、神様はこうおっしゃっている」と答えればいいのです。
 悪魔からの誘惑を受けて迷ったときには、世俗の利害損得などで考え始めないことが大切です。自分の頭で考えるのではなく、神様の声に耳を傾けるのです。聖書にはどう書いてあったか、イエスならこの場面でどういうだろうかと思い巡らすうちに、一番よい答えが見つかるに違いありません。富や名誉、権力を求める欲望だけでなく、嫉妬や不安、恐れ、孤独など人間のあらゆる弱さに悪魔は付け込んできます。どんな誘惑に対しても、「人はパンだけで生きるものではない」「なたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」「あなたの神である主を試してはならない」というイエスの答えさえ覚えておけば、ほとんど対応できるのではないかとわたしは思っています。
 悪魔は、本当に巧みにわたしたちを説得しようとします。信頼できる家族や友人の心の中に入り込んで、その人を通してわたしたちを誘惑しようとすることさえあるのです。相手を信用するなというわけではありませんが、悪魔が付け入る隙がまったくないほど完璧な人はいません。あまりに不自然な話であれば、相手の中に悪魔が入り込んでいないかを疑うのも大切なことだと思います。イエスの模範に倣って、あらゆる誘惑をきっぱり退けることができるように祈りましょう。

バイブル・エッセイ(844)「よい倉」と「悪い倉」

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「よい倉」と「悪い倉」

「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」(ルカ6:43-45)
「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す」という言葉が読まれました。口から出る言葉に、その人の心が現れるということです。ここでは、「善い人」「悪い人」という表現が使われていますが、わたしたちは誰しも、心の中に「よい倉」と「悪い倉」を持っているように思います。問題は、そのどちらの扉を開くかということなのです。
 例えば、体に疲れが溜まっていて、心にゆとりがないとき、わたしたちは心の表面にある「悪い倉」の扉を開いてしまいがちです。そして、倉の中にある恐れや不安、苛立ち、あせりなどを手当たり次第に言葉にし、相手に投げつけてしまうのです。心のもう少し深い所に、誰かに対する怒りや憎しみをため込んでいる「倉」を持っている場合もあります。その倉の扉は、その人のことが偶然話題になったときなどに勝手に開き、「あいつは気に喰わない」「あの人さえいなければ」という思いがあふれ出してくるのです。劣等感をため込んだ「倉」を持っている場合もあります。他の誰かが褒められているのを聞いたときなど、その「倉」の扉が開いて、そこから「あの人と比べて、どうせわたしはダメ人間だから」などというネガティブな言葉や、褒められた人への悪口があふれ出してくるのです。
 自分自身でも、話しているうちにその倉の存在に気づくことがあります。「あれ、まずいことを言ってるな」「こんなこというはずじゃなかったのに」などと言ってしまってから気づくのは、自分の心の中にどんな倉があるか気づいていなかった証拠です。話してみないと、自分でも自分の心の中にどんな倉があるかわからないとも言えるかもしれません。ときどき、自分の言動を省みて、心の中にどんな倉があるのか確認する必要があるでしょう。そして、中に入った「悪いもの」を外に出す必要があるのです。
「悪いものを入れた倉」の話ばかりしましたが、どんな人でも、心の一番奥深い所には必ず「よい倉」があります。わたしたちの心の一番奥深くには、必ず神様の愛が宿っており、その中には、温かな優しさや思いやりに満たされた「倉」があるのです。その「倉」が開くとき、わたしたちの口は、喜びや安らぎに満たされたよい言葉を語ることができるでしょう。
 ただ、その「倉」は心の奥深い所にあるので、なかなか見つけることができません。祈りの中で心の深みに降りたとき、初めて見つけられる「倉」なのです。口を開く前に、感情を鎮め、思い込みや執着を手放し、心を静かにする時間を持つことが大切だと思います。一瞬立ち止まって心を鎮めれば、心の奥深くにある「倉」の扉が開いて、自然とよい言葉が流れ出すはずなのです。どんなときでも、よい「倉」からよい言葉を取り出すことができるよう、神様に助けをお願いしましょう。

 

バイブル・エッセイ(843)ゆるすことは与えること

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ゆるすことは与えること

「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」(ルカ6:27-38)
「赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」とイエスは言います。ゆるすとは、相手をあるがままに受け入れ、愛するということ。与えるとは、自分を惜しみなく差し出し、愛するということ。わたしたちが誰かを愛すれば愛するほど、神様もわたしたちを愛して下さるというのが、イエスの伝えたかったことでしょう。
 ゆるせばゆるすほど、神様もわたしたちをゆるしてくださる。誰かを愛すれば愛するほど、神様もわたしたちを愛して下さるというのは、わたしたちもきっと、日々体験していることでしょう。誰かをゆるすとき、わたしたちの心は、安らぎと喜びで満たされます。逆に、誰かを厳しく裁いて切り捨てるとき、わたしたちの心は怒りや虚しさに覆われてしまいます。神様からの愛の流れが、ぴたりと止まってしまうのです。誰かを厳しく裁くなら、それは自分と神様の間に結ばれた愛の絆を、自分で断ち切るようなものなのです。
 神様を愛するということと、隣人を愛するということは、分かちがたく結びついています。隣人を拒むということは、その人の中に宿っている神様を拒むということであり、一方で神様を拒みながら、もう一方で神様とつながるということはできないのです。ダビデはそのことをよく知っていました。だからこそ、敵対するサウルの命を奪うことをせず、「主が油を注がれた方に手をかければ、罰を受けずには済まない」と言ったのでしょう。相手も神様の大切な子どもであり、その人が滅びることを神様は望んでいないということに気づくとき、わたしたちはその人を厳しく裁くことができなくなります。誰かを裁きたくなったら、それは神様が望んでおられることかどうかと、自分に問い直したらいいでしょう。
 多くを与えれば与えるほど、多く愛すれば愛するほど、わたしたちの心はさらに豊かな愛で満たされてゆきます。神様は、まるで気前の良いお店の主人のように、「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れて」くださる方なのです。それは、わたしたちに与えた愛が、たくさんの人々を幸せにすると確信しているからでしょう。この人に与えれば間違いなくたくさんの人のもとに届くと確信したとき、神様はその人に惜しみなく恵みを注がれる。そんな気がします。その人は、神様の愛をこの世界に注ぐための水路のようなものなのです。
 誰かを裁いて切り捨てるというのは、この愛の流れをストップすること、頂いた恵みを相手と分かち合うのをやめるということなのです。惜しみなくゆるすこと、与えることによって、豊かな愛の流れを守り続けることができるように祈りましょう。