バイブル・エッセイ(850)真理とは何か?

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真理とは何か?

 ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。(ヨハネ18:33-38)

「あなたは王なのか」というピラトの問いに対して、「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」とイエスは答えました。イエスがもし王であるとするなら、それは真理を求める人々が自発的にイエスの周りに集り、イエスに従うことによって生まれる国の王、「真理の国」の王なのだということでしょう。「真理とは何か」とピラトはイエスに問い返しますが、もっともな質問だと思います。真理とは一体、なんなのでしょう。どうすれば、わたしたちは、イエスの統べる「真理の国」の国民になれるのでしょうか。
 真理とは、人間が生きてゆく上で、誰もがそうだと納得する事実。中でもとりわけ、人間の幸せと直接に関わるような事柄を指しているように思います。多くの人が信じている一つの真理は、人間は死んだらおしまい。生きている間に少しでも多くの快楽をむさぼることこそが、人間の幸せだという考え方でしょう。自分のことばかり考えていては、すぐに行き詰まる。より多くの快楽をむさぼるために、互いに協力し、隣人に適度に奉仕する方が得だという考え方もありますから、このような真理に従って生きる人も、見かけ上は愛を実践しているように見えます。ですが、死の間際になれば、誰しも死を恐れることになるでしょう。どれほど地上の喜びをむさぼったとしても、欲望は無際限であり、「これで満足。もういつ死んでも構わない」ということにはならなかならないからです。
 そのような見せかけの真理しか見つけられない人間たちに、本当の真理を教えるためにイエスはやって来られました。それは、「人間の命は、死によって終わるものではない。地上の欲望をむさぼることよりも、もっと大切なことがある」という真理です。人間の命は、古い自分を十字架にかけ、自分に死ぬときにこそ本当の輝きを放つ。イエスが十字架上で苦しみ、死に打ち勝って復活したのは、この真理を、身をもって証するためだったと言っていいでしょう。
 イエス・キリストを信じたわたしたちは、十字架にこそ真理があることを知っています。人間の命は死によって終わるものではなく、地上の快楽をむさぼることよりも、神のみ旨のままに生きて天上の喜びを味わうことの中にこそ、本当の幸せがある。それこそが真理だと信じてキリスト教徒になったのです。ですが、それにもかかわらず、わたしたちは日常生活の中でついつい、地上の見せかけの真理に心を引かれ、少しでも地上の快楽をむさぼらなければ損だと考えてしまいがちです。そのたびごとに十字架の前に立ち、十字架を見上げるべきでしょう。十字架こそ、キリストが治める「真理の国」への道標であり、十字架を通らなければ誰も「真理の国」に入ることはできない。そのことを、今年も改めて、しっかり心に刻むことができますように。

 

 

バイブル・エッセイ(849)汚い部分を洗う

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汚い部分を洗う

 過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネ13:1-15)

 最後の晩餐を前にして、イエスが弟子たちの足を洗ったとヨハネ福音書は伝えています。ちょっと分かりにくい行動ですが、イエスはペトロに、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言いました。イエスが、この出来事を通してわたしたちに伝えたかったことは、一体なんだったのでしょう。
 足を洗うということは、当時の人にとってはちょっと勇気がいることだったでしょう。当時の人たちの履物はサンダルのようなもので、道は舗装されていませんでしたから、足は相当に汚れていたはずです。そのように汚れた足を見るのは嫌だし、まして手で洗えば、自分の手に汚れがうつるような気がしたに違いありません。それでも、イエスはあえて汚い足を洗った。そこにメッセージの核心があるように思います。
 わたしも、修練期や神学生の頃に実習で病院や老人ホームなどに行き、汚れ仕事をお手伝いしたことがあります。患者さんや利用者さんの下の世話です。中には、トイレまでは行けるけれど、お尻はふけないという方もおり、お尻をふく役を仰せつかったこともあります。そのような仕事をするのは、始めとても抵抗感がありました。糞便というのは不潔だし、できれば見たくない。まして、触りたくなんかないという気持ちが強かったのです。ですが、やっているうちに、あるところで開き直りというか、覚悟が決まりました。これも、人間の現実なのだ。神様が人間をこのように造ったのだから、糞便も決して汚いものではないと思うことにしたのです。それからは、あまり抵抗を感じずに奉仕ができるようになりました。
 司祭になってからも、似たようなことを体験しました。それは告解の時間です。長い時間、たくさんの罪を聞いていると、最初はとても気が重くなりました。人間の汚い部分から、目を背けたいという気持ちがあったのです。ところが、あるときから、これも人間の現実なのだと思えるようになりました。人間は、誰しも弱さや不完全さを背負いながら生きている。神様はそのようなわたしたちを、あるがままに受け入れ愛してくださる。よいところだけでなく、汚いところも含めて相手をあるがままに受け入れる。それが、愛するということなのだと思えるようになったからです。
 汚い部分を洗うということは、人間の現実をあるがままに受け入れるということに他ならないと思います。人間である以上、誰しもトイレには行くし、自分勝手な欲望が心に生まれることもあるのです。神様は、そのようなわたしたちの現実を知り、あるがままに受け入れてくださいます。それこそが、神様の愛に他ならないのです。最後の晩餐の席で、イエスはそのような愛を、身をもってわたしたちに示してくださいました。わたしたちも、その模範に倣って生きられるよう祈りましょう。

 

バイブル・エッセイ(849)しもべの身分

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しもべの身分

 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。(フィリピ2:6-11)

 キリストは「神の身分」であったのに、それに固執せず「かえって自分を無にしてしもべの身分になり、人間と同じ者」になった。それゆえに、神はキリストを高く、天の栄光に挙げられたというのです。もしキリストが「神の身分」にとどまったとすれば、神として世界を自分の意のままに動かすことがキリストの栄光だったでしょう。しかし、「しもべの身分」となったキリストは、神のみ旨のままに自分を差し出すことによって栄光を輝かせたのです。
「しもべの身分」という言葉に注目したいと思います。わたしたち人間は、どこまでいっても神のしもべであり、神になることはできない。しもべにはしもべとしての身分にふさわしい幸せがあることを、わたしたちはつい忘れてしまうからです。

 「身分」と言えば時代錯誤のようにも思えますが、「身の丈」と置き換えてもいいでしょう。たとえば、小さな子どもが何千円もの大金を手にすれば、駄菓子をありったけ買って食べ、お腹を壊してしまうかもしれません。大きなお金は、親に預けておくのが「身の丈」に合った行動だと言っていいでしょう。

 わたしたちも、基本的にはそれと同じです。大人になれば思慮分別は増しますが、それでも、人間にはやはり限界があります。たとえば、わたしたちは自分がいつ死ぬのかを知りません。今日にでも交通事故や病気で死んでしまう可能性はあるのですが、それが分からないのです。欲望に目がくらんで何かを手に入れたとしても、それを楽しむ時間はないかもしれません。人間は、自分にとって本当に必要なものが分からないと言っていいでしょう。

 あるいはたとえば、わたしたちは家族や友人のことを理解し尽すことができません。それにもかかわらず、まるですべてが分かったかのように相手を断罪し、厳しい言葉を投げつけてしまうことがあります。相手のことはもちろん、自分のことさえよく分かっていないわたしたちは、自分の思いのままに行動することで、かえって身を滅ぼしてしまうのです。
 人間には限界があること、わたしたちはどこまで行っても神にはなれず、「しもべの身分」であることを忘れないようにしたいと思います。一日の初めに、祈りの中で神のみ旨を尋ね、それに従うこと。日々与えられた使命のために、自分を惜しみなく差し出すこと。感情や欲望に押し流されず、たえず神のみ旨を確かめながら進んでゆくことこそ、わたしたちの「身の丈」に合った賢明な行動であり、そうすることによってのみ、わたしたちは日々を幸せにいきられるのです。
 しもべと言われてあまりいい気はしないかもしれませんが、「神のしもべ」となれば話は別です。私利私欲を捨て、驕り高ぶることなく、神のため、人々のために自分を喜んで差し出すことによって「神のしもべ」となる栄光に達することができるよう、心を合わせて祈りしまょう。

 

バイブル・エッセイ(848)自分をゆるす

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自分をゆるす

 イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言 うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(ヨハネ8:1-11)

 姦通の現場で捕らえられた女性に石を投げようとする人々に、イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言いました。もし自分自身も罪を犯したことがあり、神様からゆるされた体験を持つならば、この女もゆるしてやるべきではないかということでしょう。その言葉を聞いた人たちは、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去って」しまいました。歳を重ねた人ほど、思い当たることが多かったのでしょう。
 わたしたちは、人を厳しく裁くとき、自分自身のことはすっかり棚に上げている場合が多いようです。自分自身の中にもうしろめたいことがあるのに、そのことは忘れて他の人を責めてしまうのです。いえ、むしろ、自分自身の中にうしろめたいことがあるから、それを忘れるために他の人を責めると言ってもいいかもしれません。自分のことはすっかり棚に上げて他人を責めることで、一時、理想の自分になったように錯覚し、良心の痛みを忘れられるのです。自分の思った通り、理想的な生き方ができない自分自身へのいら立ちを、他の人にぶつけるという側面があるからこそ、他人を裁く言葉はより一層過熱し、厳しさを増していく。そんな気がします。
 では、どうしたら石を捨て、隣人の弱さや不完全さを受け入れられるようになるのでしょうか。そのためには、自分自身の弱さや不完全さを直視し、それを神様にゆるしていただく必要があると思います。神様にゆるしていただき、自分自身に対するうしろめたさや、弱くて不完全な自分を責める気もちがなくなれば、もう隣人を責める必要はなくなるからです。神様からゆるしていただくとき、わたしたちは相手の弱さや不完全さに共感し、それでも自分たちが神様からゆるされていることを、相手と共に感謝できるようになるのです。自分をゆるすことができず、厳しく責め続ける人は、他の人も同じように責めてしまう。神様からゆるされ、自分をゆるすことができた人は、他の人も同じようにゆるさずにいられなくなる。それが普遍の真理であるように思います。
 四旬節のあいだ、ゆるしの秘跡を受けることが特に勧められています。それは、自分がゆるしてもらうためだけでなく、他人をゆるせるようになるためでもあるのです。ゆるしの秘跡は、英語圏では広く「和解の秘跡」と呼ばれています。それはこの秘跡が、神と和解し、自分自身と和解し、隣人たちと和解するための秘跡だからです。神様にゆるしていただくために、自分自身の弱さや不完全さを直視しする勇気を願い求めましょう。

バイブル・エッセイ(847)後に残せるもの

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後に残せるもの

 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(ルカ13:1-5)

 事件や事故に巻き込まれて死んでいった人たちのことを、まるで他人事のように語る人たちに向かって、イエスは、「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言いました。同じ言葉を、2度繰り返していることからイエスの思いの強さがうかがわれます。突然の、思いがけない死は、わたしたちにとっても決して他人事ではありません。わたしたちは、いつ死がやって来てもいいように、いつも準備しておく必要があるのです。
 先日、ある葬儀に参列したとき、先輩の司祭から、「わたしたちもやがて、あのように冷たくなって、棺桶に寝かされる日が来る。そのときに、すべてが分かるだろう」と言われました。亡くなったのが自分と年齢の近い方だったこともあり、わたしはその言葉を聞いて深く考えさせられました。わたしは普段、まだしばらく生きられることを当然と思い、「あれもしなければ、これもしなければ」と仕事に追われて生活しています。ですが、そのことにどんな意味があるのか、立ち止まって考えることはあまりないのです。
 葬儀の後で、一緒に参列した人たちと話をしていて、一つ気づかされたことがありました。亡くなった方はとても高い地位につき、さまざまな業績を上げていた方だったのですが、「あんなに能力の高い人を失って残念だ」とか、「あの業績をさらに伸ばせたはずなのに」などと言って嘆く人は誰もいなかったのです。皆さん、「あの人のお陰で、わたしはどれほど助けられたか」「あの人からは、本当に大切なことを学ばせてもらった」などと言いながら、涙をぬぐっておられました。つまり、亡くなった方がこの世に残したのは、業績や評価ではなく、その方が人々に与えた愛だったのです。亡くなった方も、きっと天国からその様子を見て、自分の人生の意味がどこにあったかを知り、心から満足しておられるに違いない。わたしはそう思いました。棺桶に寝かされるときにすべてがわかるとは、きっとそういうことなのでしょう。
 そのように考えると、人生で一番大きな無駄は、地位や業績などのために人と争ったり、人を蹴落としたりすることでしょう。そのようなことをして地位や業績を手に入れたところで、結局、そのようなものは残らないのです。人を憎んだり、妬んだりするために使う時間こそ、人生の一番の無駄づかいと言っていいかもしれません。
「悔い改めなければ、皆同じように滅びる」という言葉を、自分自身に向けられた言葉としてしっかり受け止めたいと思います。もし時間を無駄づかいしていれば、突然に死がやって来たときにどんなに後悔しても手遅れなのです。いつ死が訪れてもいいように、心を整え、生活を整えてゆきましょう。

 

バイブル・エッセイ(846)自分を委ねる

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自分を委ねる

 イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。(ルカ9:28b-36)

「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」と聖書は伝えています。文脈から言って、その祈りは、イエスが「エルサレムで遂げようとしている最期」に関わることだっただろうと思われます。おそらく、イエスは祈りの中で自らの死について神に問い、自分の命を神の手に委ねる決断をしたのでしょう。その瞬間、イエスの顔の様子が変わり、真っ白に輝き始めたのです。
 イエスが自分を完全に神の手に委ねたこと、自分自身に死んだことによって、イエスの体が光を放ったということから、この出来事は「復活の先取り」とも言われます。自分自身に死ぬとき、わたしたちを通して復活の栄光が輝くのです。ですが、自分に死ぬ、自分を神の手にすっかり委ねるとはどういうことでしょう。
 わたし自身は、文章を書くときにこのことをよく体験します。説教の原稿やエッセイなどの文章を書くときに一番よくないのは、頭だけで考え、「こんなことを書けば受けるだろう」という予断をもって書き始めることです。そのような文章は、おもしろい文章になるかもしれませんが、残念ながらほとんどの場合、心に響く文章にはなりません。それでは、一過性で消えてしまう文章しか書けないのです。
 文章を書く前に、わたしは心を空にするようにしています。与えられたテーマだけを念頭に置き、「こう書いたらどうだろう」「ああ書けば受けるかもしれない」などという思いはすべて脇に置いて、ただ「神様、わたしを通してあなたのみ旨が行われますように。あなたがこの機会を通して人々に伝えたいことを、わたしを通してお伝えください」と祈るのです。すると、場合によっては数時間くらいかかることもありますが、ある瞬間にひらめきが訪れます。心の奥底から、「伝えるべきことはこれだ」という思いがほとばしり出てくるのです。そのようにして書かれた文章は、多くの場合、読者の心に残る文章になります。自分を空にするとき、神様の思いがわたしを通してあふれ出す。神様の愛が、わたしを通してあふれ出す。文章が輝きを放つ。そんな感じです。もちろん、焦って頭で書いてしまうこともありますが、そのような文章には輝きがありません。
 文章を一例にしてお話ししましたが、祈りの中で神様に自分をすっかり委ねるとは、予断を捨て去り、心を空にして神のみ旨に耳を傾けること。神の手に自分を委ねることだと言っていいでしょう。
 たとえば、物事が自分の思った通りにならず、「こんなはずじゃなかった」と思ったときには、その思いを脇に置き、「神様、与えられたこの状況の中で、何をすればよいのでしょうか」と問いかける。あるいは、たとえば、人助けをしていて「これ以上やったら自分の身に危険が及ぶ」「もうこれ以上はできない」と思ったときには、その思いを脇に置き、「神様、あなたのみ旨をわたしに教えてください」と問いかける。そして、神様の導くままに自分を差し出してゆくなら、そのときわたしたちの人生は復活の栄光を放つのです。人々の心に響く人生になると言ってもいいでしょう。自分に死ぬことによって復活の栄光を証出来るよう、共に祈ってゆきましょう。

 

バイブル・エッセイ(845)誘惑を退ける

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誘惑を退ける

 イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。(ルカ4:1-13)

 悪魔の巧みな誘惑を、イエスが簡潔な聖書の言葉によってきっぱり退けてゆく場面が読まれました。神の言葉で答えられてしまえば、悪魔はもうそれ以上何もできません。これこそ、悪魔の誘惑を退けるために最もふさわしい方法だと言っていいでしょう。
 誘惑を受けたときに一番よくないのは、相手の言葉に乗せられて、交渉を始めてしまうことです。アダムとイブの話でもおなじみの手口ですが、悪魔は人間の一番弱い部分に付け込んで誘惑し、「少しくらいは大丈夫かな」と人間に思わせようとします。そして、「そこまではできない」(私たちの声)「まあでも、このくらいなら大丈夫ですよ」(悪魔の声)などという交渉に引き込んでゆき、結局、人間を悪に引き込んでしまうのです。
 ちょうど、「振り込め詐欺」の手口に似ています。振り込め詐欺の犯人は、まず相手を信用させるような話をしたうえで、具体的に振り込む金額を提示します。そこで、「そんなには払えないよ」と言ってしまえば犯人の思う壺だそうです。「じゃあ、このくらいなら払えるだろう」と犯人は前より少ない金額を提示し、結局、相手を丸め込んでしまうのです。
 そんなときに、一番いい答えは「お金を払うつもりはまったくない。警察に通報する」と伝えることだそうです。相手の言葉をきっぱり拒み、正義に訴えるというというこの方法は、振り込め詐欺だけでなく、あらゆる誘惑を拒むのに役立つ方法だと言っていいでしょう。悪魔の誘惑にあったときには、「そんなことをするつもりは全くない。聖書にはこう書いてある、神様はこうおっしゃっている」と答えればいいのです。
 悪魔からの誘惑を受けて迷ったときには、世俗の利害損得などで考え始めないことが大切です。自分の頭で考えるのではなく、神様の声に耳を傾けるのです。聖書にはどう書いてあったか、イエスならこの場面でどういうだろうかと思い巡らすうちに、一番よい答えが見つかるに違いありません。富や名誉、権力を求める欲望だけでなく、嫉妬や不安、恐れ、孤独など人間のあらゆる弱さに悪魔は付け込んできます。どんな誘惑に対しても、「人はパンだけで生きるものではない」「なたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」「あなたの神である主を試してはならない」というイエスの答えさえ覚えておけば、ほとんど対応できるのではないかとわたしは思っています。
 悪魔は、本当に巧みにわたしたちを説得しようとします。信頼できる家族や友人の心の中に入り込んで、その人を通してわたしたちを誘惑しようとすることさえあるのです。相手を信用するなというわけではありませんが、悪魔が付け入る隙がまったくないほど完璧な人はいません。あまりに不自然な話であれば、相手の中に悪魔が入り込んでいないかを疑うのも大切なことだと思います。イエスの模範に倣って、あらゆる誘惑をきっぱり退けることができるように祈りましょう。