バイブル・エッセイ(881)命をかち取る

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命をかち取る

 ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(ルカ21:5-19)

 これまでに積み上げてきたものがすべて崩されるばかりか、人々から裏切られ、罵られるときが必ずやって来る。だが、神は決してあなたたちを見捨てない。「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」、とイエスは言います。最後まで諦めず、神から与えられた命を精いっぱい生き抜きなさいということでしょう。

 天地が揺れ動き、疫病や大戦が命を脅かす。わたしたちが生きている間に、そのような終末がやって来る可能性は低いでしょう。ですが、わたしたち一人ひとりに、確実にやって来る終末があります。それは肉体の死です。歳を取るにつれて、わたしたちの体は少しずつ衰えてゆきます。磨き上げてきた能力や、積み上げてきた体験なども、少しずつ失われ、崩れてゆくのです。何かができること、何かを持っていることを誇るなら、それらは老いと死によってすべて奪い去られることを覚悟しておかなければなりません。

 裏切りや迫害も、やってくるかもしれません。元気で力があった頃には集まってきた人たちが、老いて力を失ったり、病気に倒れたりすれば、もう姿を見せなくなる。もの忘れや勘違いがひどくなってくれば、家族からさえ、「またおじいちゃんがこんなことして」などと見下されたり、罵られたりする。邪魔者扱いされ、「早く死ねばいいのに」とさえ言われる。投獄されることはないにしても、施設などに預けられてしまう。残念ながら、そんなことは起こりがちなのです。

 そう考えると、老いること、死ぬことが恐ろしくなってきます。ですが、どんな迫害が起こったとしても、何も心配する必要はないとイエスは言います。そのときになれば、必要な知恵と言葉が必ず与えられるというのです。物忘れがひどくなってくればなってきたで、そのことを安らかな気持で受け入れ、幸せに暮らしてゆく方法はあるし、病気で体が動かなくなればなったで、幸せに暮らしてゆく方法はあります。そのときにすべきこと、家族や友人、周りの人たちに語るべき言葉は、そのときになれば神様が教えてくださる。いまから心配する必要はない。イエスの言葉は、わたしたちにそう語りかけているようです。

 大切なのは、忍耐ということだと思います。体が衰え、若さを失ったとしても、決して悲観しない。これまで出来たことができなくなったとしても、自分に対して苛立たたない。人から見下されたとしても、決して腹を立てない。何があっても神様はわたしを見捨てることがないと固く信じ、神様の愛に包まれて、いつも心に希望の火を燃やし続けている。自暴自棄にならず、この地上で自分に与えられた使命を、最後の瞬間まで果たしぬく。それが、忍耐するということであり、「命をかち取る」ということだとわたしは思います。最後まで自分の命を生き抜いた人に、神は永遠の命を与えてくださるのです。「忍耐によって命をかち取る」ことができるよう、心を合わせて祈りましょう。

バイブル・エッセイ(880)愛の完成

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愛の完成

「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」(ルカ20:34-38)

 死者の復活を説くイエスに、サドカイ派の人々が鋭い質問を浴びせます。死別と再婚を繰り返した人たちは、復活した後、どのような関係になるのかと言うのです。イエスは、復活した人たちは「めとることも嫁ぐこともない」「天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」と答えます。一体どういうことでしょう。復活のときには、夫婦や家族の絆は消えてしまうのでしょうか。

 互いが自分のすべてを相手のために差し出し合い、互いをあるがままに受け入れ合う婚姻の絆は、この地上で、三位一体の神のうちに結ばれる愛の絆に最も近いものだと考えられてます。結婚は本質的によいものであり、人間を愛の完成に近づけるものであって、復活のときに消されてしまうような余分なものではないのです。ですから、婚姻の絆が消えるのではなく、その絆がさらに高い段階へと移ってゆくと考えたらいいでしょう。

 婚姻の絆はすばらしいものですが、一つの矛盾を抱えています。神が望んでおられるのは、わたしたちが皆、互いを兄弟姉妹として受け入れ合い、無償の愛によって互いを支え合うことです。ですが、人間にはどうしても嫉妬心というものがあります。自分が愛している人が、他の人との間に深い愛の絆を結んだ場合、それを黙ってみていることができないのです。結果として、この地上では、すべての人が互いに完全な愛で結ばれるということは困難になります。

 天国では、この嫉妬という感情がなくなると考えたらいいでしょう。神さまと直接向かい合い、その愛で心を豊かに満たされるとき、わたしたちの心からは嫉妬心が消えるのです。復活した人は、自分が深く愛している人が、他の人とも深い愛で結ばれるのを見たとき、それをまるで自分自身のことであるかのように喜ぶことができます。そのことによって、その人と自分とのあいだにある愛の絆が脅かされるのではないかなどとは、まったく思いません。二人の間に結ばれた愛の絆は完全なものであり、何があっても消えることはないと確信しているからです。

 こうして、天国でわたしたちはみな兄弟姉妹として固い愛の絆で結ばれ、天使たちのように、手を携えて神を賛美することになるのです。それでは物足りないと思う人もいるかもしれませんが、相手を独占することから生まれる満足感は、神さまの愛の中では何の意味も持たなくなるので、実際にはきっと何の問題も感じないはずです。その世界では、他の人の喜びは、そのまま自分の喜びになるのです。

 このような交わりは、地上で実現するのは困難です。ですが、理想がここにあることは忘れないようにしたいと思います。嫉妬心を捨て、互いの喜びを自分の喜びとして感じられるような交わり、真実の愛の交わりを実現してゆくことができるよう祈りましょう。

バイブル・エッセイ(879)救いの地平

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救いの地平

 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ19:1-10)

 いちじく桑の上から人々を見下ろしているザアカイに向かって、イエスは「急いで降りて来なさい」と語りかけました。「降りてきなさい」というのは象徴的な言葉です。ザアカイはこれまで、徴税人として、金持ちとして人々を高い所から見下ろすような生き方をしてきたのかもしれません。そしていまも、木の上から人々を見下ろしている。その高い所から降りてきなさい。イエスはザアカイにそう呼びかけているようにも思えます。

 先日行われたアマゾン住民のためのシノドス(代表司教会議)の席で、フランシスコ教皇が出席者を注意する場面がありました。アマゾン住民の代表者たちが、鳥の羽で作った彼らの帽子をかぶって議場に現れたときのことです。教皇は、その帽子を見て出席者の何人かが笑っているのに気づきました。教皇は深く心を痛め、挨拶の中で次のように言ったそうです。「あなたたちが被っている帽子と、この人たちの帽子のどこが違うのですか」

 フランシスコ教皇は、いつも人々と同じ高さに立ち、人々と共に苦しみを共有し、人々共に祈ることを心掛けて生きて来られた方です。教皇にとって、自分たちと違った文化を生きる人たちを見下し、笑うということは、きっと耐え難いことだったに違いありません。そのような態度を捨てない限り、教会に未来はない。教皇は、きっとそう思われたに違いありません。

 わたしたちの心の中にも、自分と違った文化、違った考え方、違った生き方を見下す部分がないか、注意深く見つめ直す必要があるかもしれません。キリスト教の方が優れている、ヨーロッパの洗練された文化に近い自分たちの文化の方が優れている、そのような態度を取っている限り、わたしたちはいつまで立っても周りの人たちと同じ高さに立つことができません。同じ高さに立って、対等に話し合うことができないのです。

 対等に話し合うことができないということは、つまり相手との間に真実の関係を結ぶことが出ないということです。相手に共感し、相手の苦しみや痛みを自分自身のこととして担い、一緒に涙を流しながら神に助けを願う。そのような真実の関係を結ぶことができないのです。相手とのあいだに、愛の絆を結ぶことができないと言ってもいいでしょう。それでは、いつまでたっても神の愛を伝えることはできないし、自分自身も神の愛に触れることがでません。神は、わたしたちが互いに愛し合うとき、わたしたちのあいだにおられる方だからです。

 高い所から降りて来ようとしないザアカイに、イエスは「ぜひ、あなたの家に泊まりたい」と声をかけました。ザアカイとの間に、まったく対等な交わりを結ぼうとしたのです。この言葉を聞き、木から降りる決断をしたとき、ザアカイに救いが訪れました。イエスとの間に結ばれた確かな愛の絆が、ザアカイを救ったのです。イエスはいつでも、苦しんでいる人びとと共におられます。イエスがおられる高さにまで降り、そこで救いとであうことができるように祈りましょう。

 

バイブル・エッセイ(878)本当によい行い

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本当によい行い

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ18:9-14)

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」とイエスは言います。「高ぶる」とは、他の人と自分を比べて、自分がより優れた者だと思い込むこと。「へりくだる」とは、自分の弱さ、小ささを認め、神様の前に跪くことだと言っていいでしょう。高ぶる人は、いずれ自分の限界や弱さを知って打ち砕かれ、へりくだる人は、神様の恵みに満たされ、天の高みにまで挙げられるのです。

 このたとえ話の金持ちの最大の問題点は、行いによって思い上がり、自分が特別に優れた人間だと思い込んでしまったことでしょう。自分はよい行いをしている、だからよい人間だ。そう思い込んでしまっているのです。ここに、よい行いの大きな落とし穴があるように思います。わたしたちはよい行いをすべきなのですが、もしそれを誇るようになれば、その瞬間にそのよい行いは、もはやよい行いでなくなってしまうのです。

 そもそも、人間にとってよい行いとは何でしょうか。それは、究極的には神様を愛すること。神様が造られたすべてのものを愛することだと言っていいでしょう。人間は愛するために造られたので、愛するときにだけ本来の姿となり、よいものになるのです。愛することの基本は、相手のために自分を差し出すことにあります。「神様、わたしは弱くて、不完全な人間にすぎませんが、このわたしをあなたにお捧げします」と祈り、神様の愛に満たされて自分を人々に差し出す。それこそが、愛する人の姿なのです。

 この金持ちがしていることは、そのまったく逆です。「神様、わたしは特別に優れた人間です。ご褒美をください」とでもいうような態度の中には、愛がまったくないのです。この金持ちは、周りの人たちに自分を差し出すどころか、周りの人たちを見下し、自己満足の道具とさえしています。もしかすると、最初は愛から始めた行いだったのかもしれません。ですが、思い上がって愛が消えた瞬間、その行いは愛の行いではなくなり、よい行いでもなくなってしまったのです。結果として、この金持ちは神様の前でよいものとされること、「義とされる」ことがありませんでした。

 神様の前で自分を誇れるほど完全な人間、強い人間など誰もいません。「こんなわたしですが、どうぞあなたのみ旨のままに、あなたのため、あなたの愛する人々のためにお使いください」と真摯に祈るとき、神様はわたしたちに愛を注ぎ、わたしたちの心を力で満たしてくださいます。心を満たした愛に突き動かされ、苦しんでいる人に手を差し伸べるとき、神様の愛を一人でも多くの人に伝えたいと出かけて行くときにだけ、わたしたちの行いは神様の目に「よいもの」とされるのです。あらゆるよい行いは、「自分にはよい行いなどする力はありません」と認め、神様に助けを願うところから始まると言ってもよいのではないかと思います。

「罪びとであるわたしと主の関係、これこそ救いの生命線です」と教皇フランシスコは言います。思い上がって自分を誇り、神様に背を向けるとき、わたしたちは愛から切り離され、自ら滅びへの道をたどるのです。謙虚な心で神様と結ばれ、よい行いに励むことができるよう祈りましょう。

 

バイブル・エッセイ(877)熱心に祈る

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熱心に祈る

イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカ16:1-8)

 しつこく裁判官にせがんで、願いを叶えてもらったやもめの話が読まれました。ちよっとどうかと思う話ですが、ここでイエスが言いたいのは、何があっても諦めないやもめの熱心さに見倣えということでしょう。わたしたちは、願いを持っても、すぐに諦めてしまうことが多いのです。

 例えば、世界の平和について。わたしたちは、毎週のように世界の平和を願いますが、果してこのやもめのような熱心さをもって祈っているでしょうか。心のどこかで、「もうこんなに祈ったんだし、世界は複雑だから、祈ってもすぐに平和になるということはないだろう」というような諦めを感じていないでしょうか。それでは、決して願いはかなえられないでしょう。このやもめのようになりふり構わず、なんとしてでも願いを聞き入れてもらうというくらいの覚悟が必要です。「神さま、いますぐにでも空爆を止めてください。子どもたちの命を守ってください」と心の底から真剣に祈るなら、神さまは必ず願いを聞き入れてくださるでしょう。少なくとも、そのように祈るとき、この世界には神への愛、神への信仰が生きており、神様は必ずそれを見つけてくださるのです。

 あるいは例えば、家族や友人との関係について。間違った道に進んで、頑なに忠告を受け入れようとしないような人、夫や子どもなど、に対して、わたしたちはつい「もうこれ以上やっても無駄だ」と諦めてしまいがちです。ですが、そんなことはありません。もしわたしたちが真剣に、心からの愛をもって祈り続けるなら、神さまは必ず相手の心を変えてくださいます。「折が良くても悪くても励みなさい。…忍耐強く、十分に教えるのです」とパウロが言うように、忍耐強く愛を注ぎ続ければ、必ず相手の心は変わります。わたしたちの心に神の愛が宿るとき、それと出会った人の心は必ず変わります。もし変わらないなら、それはまだわたしたちが十分に祈れていないから、わたしたちの心に神の愛が宿っていないからです。人間の心が変わるとき、どれほど困難に思えた状況にも、必ず変化が訪れます。祈りはわたしたちの心を変え、周りの人たちの心を変え、世界を変えてゆくのです。

 わたしたちが熱心になれない一つの理由は、どこかで他人事だと思っていることでしょう。もし自分自身が爆弾の危険にさらされており、自分の子どもたちが傷ついているなら、わたしたちはきっと一心不乱に祈り続けるでしょう。しつこいやもめのように、神さまを追いかけまわすに違いありません。簡単に諦めてしまうなら、それは、わたしたちの心にまだ愛が足りないから。どこかで他人事だと思っているからなのです。

 「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」とイエスは言います。大切なのは、わたしたちの心に信仰が燃えていること、愛の火が燃えていることです。苦しんでいる人たちへの愛、家族や友人への愛に突き動かされ、このやもめにも負けないほどの熱心さで願い続けることができるよう祈りましょう。

バイブル・エッセイ(876)救いの法則

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救いの法則
イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(ルカ17:11-19)

 病を癒されたことを感謝するために戻ってきたサマリア人に、イエスは「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と語りかけました。体が癒され、心を神への感謝で満たされたこの人に、救いが訪れたということです。戻らなかった人たちは、体は癒されたかもしれませんが、心に救いが訪れたかどうかは分かりません。救われるためには、神に感謝する心が必要だということを、この話はわたしたちに教えているようです。

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」と言いますが、わたしたちは、何か困難に直面したときには神さまに祈るけれども、困難が取り去られたときには、神さまを忘れてしまうことが多いようです。救ってもらったことは忘れて、さらに、「あれも足りない、これも足りない」と神さまに不満を言うことさえあります。それでは、いつまでたっても心は満たれないし、救いに到達することもできないでしょう。

 わたし自身の体験で言えば、これまでの人生の中で一番たくさん祈ったのは、神父になるときでした。叙階が本当に認められるかどうかは、最後まで分かりません。決定直前の時期は「神さま、どうかみ旨であれば神父にしてください」とずいぶん祈ったものです。叙階が認められたときは、心の底から「神さま、どうもありがとうございました」と感謝しました。

 ところが、最近どうも、そのことへの感謝を忘れがちです。神父になれたことだけでも感謝すべきことなのに、それだけで満足できず、神さまに不満を言ってしまうのです。「神さま、あれが足りません。あれさえ手に入れば幸せになれるのに」とか、「なぜこんな目に会わせるのですか」とか、ないものばかりを見て、「自分はなんて不幸なんだ」と思い込んでしまうのです。

 そんなとき大切なのは、叙階の喜びを思い出すことです。喜びを思い出し、感謝の心を取り戻しさえすれば、あれが足りない、これが足りないと不満ばかり言ってつまらなそうな顔をしていては申し訳ないという気持ちになります。神さまにして頂いたことを思い出して感謝するとき、心に湧き上がる喜び。それこそ、わたしたちに与えられる救いなのでしょう。

 一人ひとりに、そのような大きな恵みの体験があると思います。たとえば、結婚について、いまは色々と苦情があるかもしれませんが、そもそも結婚できたということ自体が神さまからの恵みなのです。子どもについても、いまは色々と文句が言いたくなるかもしれませんが、そもそも生まれてきてくれたということが恵みなのです。そのことを思い出して感謝するとき、わたしたちの心は喜びで満たされます。その喜びが、さまざまな困難を乗り越えてゆくための力になるのです。

 感謝しなければ、どんな大きな恵みも手のひらをすり抜け、心を満たすことがありません。逆に、どんなわずかな恵みでも、大きな感謝で受け取れば、心を十分に満たすことができます。それが、救いの法則だと言っていいでしょう。受け取った恵みへの感謝を忘れず、いつも謙虚な心で生きてゆくことができるよう神さまに祈りましょう。

バイブル・エッセイ(875)特別な謙虚さ

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特別な謙虚さ

 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17:7-10)

 神のしもべである以上、神から自分に与えられた使命を果たしても、威張ったり、見返りを求めたりするべきでないとイエスは弟子たちに諭します。これは、神から与えられた使命を生きるすべての者に向けられた忠告と言っていいでしょう。
 与えられた使命を果たしただけなのに、それをまるで自分の手柄のように誇り、見返りを要求し始める。そのようなことはよくあると思います。たとえばわたしは日々、神父として与えられた使命を果たしています。ミサを捧げたり、幼稚園や刑務所で話したり、それがわたしに与えられた使命だからです。ですが、ときどき、心に思い上がりが生まれます。「わたしは、こんなにみんなの役に立っている。偉い人間だ」と思い込み、「尊敬されて当然だ、感謝されて当然だ」と思うようになるのです。誰かにぞんざいな言葉遣いで話しかけられると、「わたしを誰だと思ってるんだ」と腹を立てて不愛想な態度を取ったり、自分のしていることを誰も評価してくれないと、「こんなに一生懸命にやっているのに、なぜ誰も褒めてくれないんだ」と不機嫌になったり。そんなことがつい起こりがちです。
 そんなときに思い出さなければならないのは、自分は単に、神から与えられた使命を果たしているにすぎない。神のしもべに過ぎないということです。与えられた使命を、当然に果たしているだけであって、決して「偉い人間」ではないのです。神から神父という大切な使命を与えられ、人々のために自分を差し出して働くことができる。そのこと自体が、とるに足りないしもべであるわたしにとっては感謝すべきことです。
 皆さんの場合であれば、たとえば子育ての使命があります。子どもが生まれたとき、おそらく、こんな自分に元気な子どもが与えられたことを神に感謝したことでしょう。ですが、子どもが育ってくると、子どもに対して、あるいは神様に対してつい不満を言ってしまいがちです。「こんなに苦労して育ててやったのに、なんで言うことを聞かないんだ」とか、「なぜ『ありがとう』の一言もないんだ」とか、そのような言葉が、つい口から出てしまうのです。そんなときには、自分がただのしもべに過ぎないことを思い出すべきでしょう。わたしたちは、神様から子育てという使命を与えられたしもべ。苦労して子どもを育てるのが当たり前なのです。尊敬してもらえない、感謝してもらえないというような不満を言うことはできません。むしろ、神様から子どもを預かり、育てるという尊い使命を与えられたことに感謝すべきなのです。結婚やそれぞれの職業など、すべての使命について同じことが言えるでしょう。
 与えられた役割を立派に果たすことが、しもべには期待されています。ですが、使命をどんなに立派に果たしたとしても、思い上がれば台無しです。使命を立派に果たしながら、それでいてまったく思い上がらない。しもべには、そのような特別な謙虚さが求められているのです。神への感謝を忘れず、謙虚な心で奉仕の道を歩めるように祈りましょう。