バイブル・エッセイ(887)命は光であった

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命は光であった

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(ヨハネ1:4-5)

「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」とヨハネは言います。神のことばが愛だとすれば、愛の中には生かすための力、すなわち命が宿っているのです。この命は光となって、わたしたち一人ひとりの中に、生きとし生けるすべてのものの中に輝いています。すべての命は輝いているのです。その光は、わたしたち自身を照らすため、そしてまた互いを照らし合うために灯されました。ところが、「暗闇は光を理解しなかった」と言われている通り、わたしたちは、命の中にキリストの光が輝いていることに気づかないまま生きていることが多いのです。

 命が輝いているということを、わたしたちに一番はっきり知らせてくれるのは、たとえばMくんでしょう。車いすのMくんは、言葉で自分をアピールしたり、派手な服を着て人の注目を集めたりすることはありませんが、わたしたちの心を惹きつけます。それは、Mくんの中に命の光、キリストの光が輝いているからでしょう。Mくんを見ていると、わたしたちの心に生きるための力が湧き上がってきます。見ているうちにだんだん心が温かくなり、「よし頑張ろう」と思えるのです。それは、Mくんの中に命が輝いているからだと思います。命の光を見つめるとき、わたしたちの心は、生きるための力で満たされるのです。

 これは、実はMくんだけに限らないと思います。わたしたちの命は、生きている限り、わたしたちの中で輝き続けているのです。皆さんも、わたしも、一人ひとりが、世界にたった一つだけの自分の光を放って輝く、かけがえのない命なのです。ところが、わたしたちはそのことに気づきません。そこで、自分を何とか輝かせよう、人目を引こうとして人と競争し始めます。たくさんの物を手に入れてそのことを自慢したり、財産や地位を誇ったり、人を見下したりし始めるのです。結果として、命の光は遮られてしまいます。自分で自分を輝かせようとして、かえってわたしたちは輝きを失ってしまうことが多いのです。輝くために、何かを手に入れたり、大きな業績を上げたりする必要はありません。命を輝かせるためには、与えられた命を、ただ精一杯に生きればいいのです。

 フランシスコ教皇は、すべての命の中に輝く愛の光、キリストの光を見通すまなざしのことを「祈りのまなざし」と呼びました。誰かを外見や地位、身分、能力などによって判断するのが「世俗のまなざし」だとすれば、「祈りのまなざし」とは、目には見えないその人の本当の姿、神の子としての姿を見通すまなざしのことです。「祈りのまなざし」で自分を見るとき、わたしたちは自分の中に命の光、キリストの光がともっていることに気づきます。自分の命は、世界でたった一つのかけがえのない命だと気づくのです。「祈りのまなざし」で相手を見るとき、わたしたちは相手の中にも命の光、キリストの光を見ます。そして、その光を大切に守らずにいられなくなるのです。神様は、わたしたちを照らすために、わたしたち一人ひとりの中に命の光を灯してくださいました。その光に気づき、その光を守ってゆくことができるように祈りましょう。

バイブル・エッセイ(886)空の飼い葉桶

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空の飼い葉桶

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。(ルカ2:1-7)

「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」とルカ福音書は伝えています。イエスが今日、わたしたちの心にやって来られるとするなら、この飼い葉桶こそ、わたしたちの心なのではないでしょうか。イエス・キリストはマリアから誕生し、わたしたちの心の飼い葉桶にそっと置かれるのです。

 飼い葉桶がわたしたちの心だと考えると、いろいろ大切なことに気づかされます。長年使い込まれた飼い葉桶は、牛にけられてへこんだり、よだれが沁み込んだりして、傷つき、汚れているでしょう。でも、それは問題ではありません。見た目は悪くても、中に干し草をたっぷり入れることさえできればいいのです。ですからわたしたちも、自分の傷ついた心、罪の汚れをぬぐい切れない心を気にする必要がありません。イエスを迎える飼い葉桶であるためには、心に干し草をたっぷり入れるスペースがあればいいのです。

 では、干し草とは何でしょう。それは神さまの愛だと思います。わたしたちが、神さまへの愛のため、隣人への愛のために自分を差し出すとき、神さまは、空っぽになったわたしたちの心に、ふわふわで温かい愛の干し草を入れてくださるのです。努力して干し草を集める必要はありません。ただ、神さまのために自分を差し出し、心の飼い葉桶を空にするだけでいいのです。

 たとえば、わたしたちの心が怒りや憎しみで一杯だったら、神さまは干し草を入れることはできません。干し草を入れたとしても、怒りや憎しみの炎に燃やし尽くされてしまうことでしょう。干し草を入れていただくには、怒りや憎しみの炎を消す必要があります。怒りというのは、わたしたちの心の中にある「どうして自分の思った通りにならないんだ」という気持ち、すべてを自分の思った通りにしたいと願う傲慢から生まれてきます。その傲慢さを手放し、「わたしの思った通りにではなく、すべてあなたのみ旨のままになりますように」と神さまに自分を差し出すとき、神さまはわたしたちの心の飼い葉おけに干し草を入れてくださいます。

 あるいはたとえば、わたしたちの心が人を押しのけてでも金持ちになりたい、権力や名誉を手に入れたいというような野心で満たされていたらどうでしょう。ぎらぎらした、どろどろの野心で一杯の心には、神さまと言えど、干し草を入れる気にならないでしょう。「わたしはあなたのしもべ。わたしをあなたのみ旨のままにお使いください」と神さまに自分を差し出すとき、神さまはわたしたちの心の飼い葉桶に干し草をいれてくださいます。

 そのようにして、わたしたちの心が干し草で一杯になったときこそ、イエスが誕生するときです。神様は、準備ができた飼い葉桶から、イエスを置いてくださることでしょう。謙虚な心で神様に自分を差し出し、イエスを置いていただくことができるよう共に祈りましょう。

バイブル・エッセイ(885)愛の受肉

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愛の受肉

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた。(マタイ1:18-24)

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」というイザヤの預言が実現し、神が人間となってわたしたちのもとに来られた。それがイエス・キリストなのだとマタイは伝えています。ですが、なぜ神は人間になる必要があったのでしょう。全能の神ならば、天からでも人を助けられたのではないでしょうか。

 先日、幼稚園の子どもからもこの質問を受けました。非常に鋭い質問です。わたしはこう答えました。「人間にならなかったら、こうやって目を見て話したり、にっこりほほ笑んだり、手を握ったりできないだろう。それじゃ、『きみがだいすきだよ』って気持がなかなか伝わらない。だから神さまは人間になったんだと思うよ。」実際に手を握り、顔を近づけて話したせいもあってか、子どもはそれで納得してくれたようでした。もう少し難しく言えば、人間に愛を伝えるために、神は人間になる必要があったということです。

 愛は、言葉だけではなかなか伝わりません。「神はすべての人を愛している。君も神の子だ」といくら口先で言われても、それだけでは心に響かないのです。ですが、誰かが手を握り、目に涙を浮かべながら「あなたは、本当にかけがえのない存在なんだよ」と言ってくれれば、きっと心が動くでしょう。愛は、相手の心に響いたとき、初めて本当の意味で相手に伝わるのではないかとわたしは思います。わたしの経験に基づけば、ただ頭で理解しただけの愛は、生きてゆくための力になりません。心に響き、心を揺さぶる愛だけが、生きてゆくための力になるのです。

 笑顔にしても、手の温もりにしてもそうですが、言葉に愛の響きを与えるためには、やはり体が必要なのではないかと思います。心の奥深くから湧き上がった愛が、わたしたちの心を揺さぶり、目や表情、口、手など全身から発せられるとき、その愛は響きとなって相手の心に届き、相手の心を揺さぶる。そんな風にわたしは思っています。もちろん、神さまにはそれ以外の仕方もできたでしょう。ですが、やはり一番確実なのは、相手の目を見、手を握り、にっこりほほ笑みながら、あるいは目に涙を浮かべながら話しかけることなのです。それで、神さまは人間になった。イエス・キリストとなって貧しい人々、病気の人々、社会の片隅に追いやられた人たちのもとへゆき、ときにほほ笑み、ときに涙をこぼしながら愛を伝えた。そういうことだったのではないかと思います。

 この世の中には、言葉だけ、口先だけの愛があふれているような気がします。だから、これだけ愛という言葉が語られながら、「わたしは愛されている。わたしはかけがえのない存在だ」と実感できる人が少ないのです。この時代も、確かに愛の受肉を必要としています。イエス・キリストがわたしたちの心に宿り、わたしたちの体を通してこの世界に真実の愛を伝えてゆくことができるように、わたしたちがキリストのまなざし、キリストの手の温もり、キリストの優しい声になることができるように祈りましょう。

バイブル・エッセイ(884)喜びの訪れ

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喜びの訪れ

ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(マタイ11:2-6)

「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」、イザヤこの預言がイエスによって文字通り実現している。イエスこそ、わたしたちの救い主なのだ。今日の福音の箇所は、わたしたちにそのことを確信させてくれます。病を癒され、力を与えられ、イエスの周りに次々と広がってゆく喜びの輪。それこそ、イエスが救い主であることの証だと言っていいでしょう。

 イエスが来るとき、それがどんな場所であったとしても、そこには必ず喜びが生まれます。わたしは昨日、まったく違う二つの場所でクリスマス会をしましたが、そのどちらにもイエスがいたと確信しています。なぜならそこに、喜びがあったからです。

 一つの場所は幼稚園でした。昨日は、卒園児のためのクリスマス会があったのです。久しぶりに幼稚園に来て、「かみさまのおはなし」を聞いた子どもたちは、とてもうれしそうにしていました。「一人ひとりがとても大切ないのち。かけがえのない神さまの子どもなんだよ」という話を、久しぶりに聞いたからでしょう。子どもたちの笑顔を見たとき、子どもたちの心にイエスがやって来たことを、わたしは確かに感じました。

 もう一つの場所は刑務所でした。昨日は午後から、刑務所でもクリスマス会があったのです。クリスマス会と言っても刑務所ですから、お菓子や飲み物が出るというわけではありません。寒々とした体育館に集まって、聖書の言葉を聞き、学生たちのハンドベルの演奏に耳を傾けるというだけのことです。ですが、そんな簡素なクリスマス会の間にも、受刑者の皆さんの顔に喜びの笑顔が浮かぶことが何回かありました。引退間際の老牧師が、受刑者たちに優しく語りかけているとき、学生たちが一生懸命にハンドベルを操り、演奏しているとき、受刑者たちの顔には、確かに喜びの笑顔が浮かんでいたのです。それはきっと、「自分のために、こんなにも親身になってくれる人がいる。神さまは、まだわたしを見捨てていない。わたしの人生には、まだ希望がある」という喜びだったのではないかと思います。受刑者たちの笑顔を見たとき、わたしはこの刑務所にも、確かにイエスがやって来たと感じました。

 イエスがやって来るところには、必ず喜びがあります。いまはまだ待降節ですが、クリスマスになれば、今年もわたしたちのところにイエスが来てくださるのは確かなことです。「こんなわたしのところにさえ、イエスは今年も来てくださる」と思えば、わたしたちは自然と笑顔になり、イエスを迎えるのにふさわしい人間になろうと努力を始めるでしょう。喜びのうちに、イエスを迎えるための準備をするための期間。それこそが待降節なのです。子どもたちのように素直な心で、受刑者の皆さんのように、自分の弱さを知る謙虚な心で、イエスの到来を待ち望みましょう。

バイブル・エッセイ(883)心の扉を開く

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心の扉を開く

 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」(マタイ3:1-6)

「悔い改めよ」「主の道筋を整え、その道筋をまっすぐにせよ」という洗礼者ヨハネの声が、荒れ野に響いています。「主の道筋」とは、イエスがわたしたちの心に入ってくるための道。その道は、悔い改めによってのみ整えることができるのです。

 わたしたちの心は、思い上がりや劣等感など、さまざまなでこぼこがあって歩きにくい道です。ですが、イエスはそのようなでこぼこを乗り越えることができます。イエスが一番困るのは、心の扉が完全に閉ざされているとき。わたしたちが、「こんなわたしが、救われるはずがない」と思い込み、絶望の闇の中に閉じこもってしまっているときでしょう。諦めてしまってイエスの顔を見ようともしない、その声に耳を傾けようともしないということでは、イエスでさえどうにもすることはできません。「今年こそ変われるかもしれない」「いまこそ、わたしの人生の大きな節目の時かもしれない」と心の底から信じ、イエスに向かって心を開くこと。それこそ、主の道を整えるにあたって、まずすべきことでしょう。

 今年、イエス様はわたしたちにとても分かりやすい姿でやって来られました。この地上における「キリストの代理者」であるフランシスコ教皇を通して、わたしたちはイエスの言葉に触れたのです。わたしたちは、教皇が運んでくださった喜びのメッセージ、キリストの愛をしっかり受け止められたでしょうか。「ビバ、パパ」と叫んで大騒ぎはするけれど、言葉はまったく聞いていない。記念グッズは集めたけれど、教皇の言葉は何も心に残っていない。それでは、何の意味もありません。教皇は、わたしたちの心にキリストの言葉を届けるために、愛のメッセージを届けるためにこそ来たのです。大切なのは、心を開いてそのメッセージをしっかり受け止めることです。

 中には、「教皇の言葉は素晴らしいけれど、難しすぎてよくわからない。わたしにはとてもではないが実行できない」などと考えて、はじめから教皇の言葉に耳を傾けない人もいるかもしれません。それは、教皇が連れてきた下さったイエスを、門前払いにするのと同じです。たとえば、教皇は東京ドームのミサで次のようにおっしゃいました。

「障がいのある人や体力の衰えた人は、愛するに値しないのですか。外国人や、間違いを犯した人、病気の人、刑務所にいる人、その人たちは愛するに値しないのですか。」

 これはまさに、預言者の言葉だと思います。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたのである」とイエスはおっしゃいました。そのような人たちの中にこそイエスがいる。そのような人たちの中にいて、わたしたちが心を開くのを待っている。心を開くとき、わたしたちの心にイエス・キリストが訪れる。教皇はそのようにおっしゃっているのだと思います。

 今年の待降節は、教皇様が運んでこられたキリストの言葉を受け止めることによって「主の道筋を整え」、まっすぐにしてゆきたいと思います。「また今年もか」と思って諦めることがないように、変わりたいという思い、変われるかもしれないという希望を持ち続けられるように、共に祈りましょう。

バイブル・エッセイ(882)目を開く

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目を開く

 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(マタイ24:34-44)

 飲んだり食べたり、日々の仕事に追われたりするうちに、神さまのことをすっかり忘れてしまうわたしたちに、イエスは「目を覚ましていなさい」と語りかけています。どんなときでも神さまの愛を忘れないようにしなさい。目を開いて、神さまの愛の光の中を歩みなさいというのです。

 フランシスコ教皇は、使徒的勧告『福音の喜び』の中で、現代社会の最大の危機は、人間の心に生まれる虚しさだと指摘しています。神さまと交わりを断ち切り、隣人との間に壁を作り、自分の中に閉じこもるときわたしたちの心に生まれる虚しさ。それこそが、諸悪の根源だというのです。このような虚しさが生まれるとき、わたしたちは欲望を満たすことによってそれを埋めようとします。ですが、どんなに食べても、どんなに飲んでも、どんなに森を切り倒して大きな家を建てても、戦争で領土を拡大しても、それで人間の心が満たされることはありません。この虚しさは、際限なくすべてを呑み込んでしまうブラックホールのようなものなのです。この虚しさを、闇と呼んでもいいでしょう。自分のことばかり考え、神様にも隣人にも目を閉ざすとき、わたしたちの心に闇が生まれるのです。

 この闇に対抗するための唯一の方法が、「目を開く」ことです。自分のことばかり考えるのをやめ、神様に向かって目を開く、苦しんでいる隣人たちに向かって目を開くとき、わたしたちの心に愛の光が射しこみます。愛の光が射しこむとき、闇は消え去り、心はすみずみまで喜びで満たされるでしょう。それこそ、わたしたちの救いなのです。「目を開く」とは、救われることだと言ってもいいでしょう。目を開きさえすれば、神の愛に目を向け、隣人に心を開きさえすれば、わたしたちは救われるのです。

 「神さまなんか気にしていたら、自分の人生を楽しめない」「隣人のために自分の時間を使ってしまうなんてもったいない」、そのように考えて、わたしたちは闇の中に落ち込んでゆきます。どうもわたしたちは、目を覚ましているようでいて、何も見えていないことが多いようです。自分の思いを放棄して、神さまの思いのままに生きるときにこそ、わたしたちは一番自分らしく生きられる。隣人のために時間を無駄にするときにこそ、わたしたちは実は、一番有効に時間を活用している。目を開いてそのことに気づかない限り、わたしたちはいつまでたっても闇の中をさまよい続ける他ないでしょう。

 今回の来日中も、教皇様は繰り返しこのことを訴えられました。生産性のみに注目し、効率優先で進んでゆく世界は、人間の心に虚しさを生み、その虚しさは結果として世界を滅ぼすのです。どんなときでも、神さまの愛に目を開いていることができるよう、いつも喜びの光の中を歩んで行けるよう、共に心を合わせて祈りましょう。

 

 

バイブル・エッセイ(881)楽園に入る

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楽園に入る

 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23:39-43)

 一緒に十字架につけられた強盗の一人に向かって、イエスは「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言いました。これは、ちょっと疑問符がつく言葉です。もし「楽園にいる」というのが復活の意味なら今日ではなく3日後、昇天の意味ならまだ大分かかることになるでしょう。イエスはここで、死後の天国ということより、むしろ今この人に救いが訪れたということを言いたいのではないでしょうか。神への恐れを取り戻し、自分の罪深さを認めてキリストに助けを願うとき、キリストともに十字架に付けられるとき、わたしたちはキリストと共に「楽園にいる」のです。

 イエスを罵る強盗をたしなめようとして、この強盗は「お前は神をも恐れないのか」と言いました。「神を恐れる」とは、怖がるということより、むしろ畏れ敬うということでしょう。神への恐れを失うとき、人間は自分自身を神として、自分の欲望の赴くままに行動するようになります。「神なんか知るか、自分さえよければいいんだ」「ばれなきゃ、何をしてもいいんだ」ということです。自分の欲望を満たすため、自分の利益のために周りの人を欺き、陥れ、傷つけたとしても、まったく意に介さず、次々と罪を重ねてゆく。神への恐れを失うとき、わたしたちは、そのようにして罪の深みに落ちるのです。

 神を恐れて生きることこそ、信仰生活の第一歩であり、わたしたちに求められていることのほとんどすべてだと言っていいでしょう。神を恐れるとは、自分が神の前では取るに足りない罪人であると知ること。そんな自分でさえ愛してくださる神に感謝し、神を悲しませるようなことはもう二度とすまいと決意すること。どんなときでも、自分の思いより、神のみ旨を優先して生きることだからです。自分の罪深さに気づき、神への恐れを取り戻すとき、わたしたちは神の子としての本来の姿に戻り、神の愛に包まれます。神への恐れを取り戻すとき、わたしたちは楽園に戻るのです。

 イエスと共にいるならば、十字架の上でさえ楽園になる。これも大きな希望だと思います。どんな苦しみの中にあったとしても、神への恐れを忘れず、神に祈っている限り、わたしたちは決して一人ではありません。イエスがわたしたちの隣にいて、わたしたちと共に苦しみを担って下さっているのです。「なぜわたしだけこんな目にあうのですか」、苦しいときにわたしたちはついそう叫んでしまいます。ですが、わたしたちだけではないのです。わたしたちが苦しむとき、わたしたちの隣にはいつもイエスがいて、わたしたちと一緒に苦しんでくださっているのです。

 イエスがいつくしみ深くわたしたちを見つめるとき、そのまなざしの中で、わたしたちの苦しみは喜びに変わってゆきます。苦しみが、イエスとわたしたちを結ぶ絆となるのです。イエスが共にいてくださるとき、十字架の上でさえ楽園になります。神を恐れ敬い、神のみ旨のままに、イエスと共に生きられるよう祈りましょう。